1.4年2組「学級通信・じゃんけん」
昭和50年7月春日から小松基地へ転勤し、小松市野立町の自衛隊官舎に入居した。次男は小松市串小学校4年に転校した。夏休みに入る直前であったが、担任の関本孝三先生に暖かく快く受け入れていただいた。人事異動の時期が学期の途中であり、子供にとっては転校の連続で大変であった。
転校して間もなく子どもが持ち帰った学級通信4年2組の「じゃんけん」(50.7.10 NO57)を手にしてびっくりしたことを今でも鮮明に覚えている。学級通信は、平均して10日に7枚(7号ずつ)発行された。「学級の記録」であり、先生にとっては学級経営の記録であり、子供にとっては学校生活の足跡ともいえるものであった。
関本先生とは子供の4年・5年を担任されたことから転勤後も長年ご厚誼をいただくことになった。
《 担任の関本先生の編集したこの学級通信を始めて手にして、子供たちを「上手にやる気にする」教育指導だけではなく、子供たちに具体的な目標を与え、親たちまでとりこにしている手法にびっくりしたものでした。》
2.5年1組「学級通信・いつつぼし」
子どもは5年に進級し、担任は関本孝三先生であった。先生の「学級通信」は他の追従を許さないほど独特の編集方法で、子供と親を自然体で上手に結びつけていったことが強く印象に残っている。5年1組の学級通信「いつつぼし」は、4年2組の「じゃんけん」同様に、まとめて数冊の「いつつぼし」集となった。
《 関本先生から親の所感をもとめられたので、箇条書きにして投稿したもの。多くの親からいろいろな所感が寄せられその都度掲載された。》
《 5年生の最後の学級通信 「いつつぼし」だったであろうか、6年生になったらと目標をしっかり決めている。6年生になると、担任が北村きみ子先生にかわった。北村先生は学級通信「つどい」を編集発行された。新しい視点で学級通信が受け継がれた。当時、この種の学級通信が串小学校の全学級で行われていたものと思われるが定かではない。》
3. 学級通信と「〇〇だより」
昭和50年から52年の2年間の小松基地勤務において、関本孝三先生の学級通信はいろいろな隊内におけるコミュニケ-ションのあり方、手段方法につて示唆を与えてくれた。後年、「〇〇だより」形式の各種の情報連絡紙の創刊に参考になったものである。