昭和の航空自衛隊の思い出(204) 日常生活における心がけ

1.小松海岸の投げ釣り

 昭和50年7月から52年8月の2年間小松基地に勤務した。日本海に面した航空基地勤務であったことから休日には小松海岸での投げ釣りに出かけた。荒々しい岩場での磯釣りもあったが、もっぱらなぎの日に投げ釣りを楽しんた。

 釣りは真似事程度であったが、キスなどがよく釣れた。あるときは投げ釣りならぬイイダコが面白いほど大量に釣れたことがあった。仕掛けに赤い布をつけて遠くに投げ入れると次から次へと釣れた。釣り糸から伝わるグイグイと引っ張る手ごたえを満喫したものであった。

 

2.常に緊急対処の心がけ

   近くの海岸での投げ釣りはやったが、 渓流釣りはやらなかった。機会はかなりあったが山奥の渓谷に入って行くのは連絡手段が困難であったことから仲間入りしなかったように記憶している。

 休日等とはいっても携帯電話のない時代であり、どこにいても仕事柄、緊急対処できる体制にあるということが頭を離れず、家族にも常に所在を明らかにしていた。このようなことが影響したのかもしれない。

 戦闘航空団にあって、アラ-ト待機している部隊の一員として、心は「常在戦場」であった。やはり初級幹部時代に要撃管制官として航空警戒監視任務に就いたことが:強い影響を与えていたのかもしれない。司令部の幕僚はそれ以上の心構えと体制にあるべきだと考えていた。

 自衛官の生活は、警察官、消防官海上保安官などと同じく、ぞれぞれの職務の特性に応じて、日常生活にも目に見えない厳しいものがある。常に緊急対処に応じられる生活を送っているからであろう。そのことはどんな職業でも同じであろうと思われる。

 自衛官を志したときから職務に対する厳しさを自覚しており、それが当然だと思っていたからいささかの疑念も不満もなかった。自分の心が許さなかったなのかもしれない。

 今となっては、渓流釣りに出かける体力気力もなくなった。若いうちは何でもやっておくものだが、その時々のおかれた状況であり、それでよかったのだと思っているので全く心残りはない。

 

3.飲んだらハンドルを握るな

 人事幹部及び人事幕僚として、部隊の服務規律の元締めの職務を担うことになった。一番心したことは、マイカ-の時代になったので、酒を伴う席には車を運転していかないこと、宴会は必ず宴会代と往復のタクシ-代で成り立つと決めていた。財布の中にしっかりと金子を入れるのを確かめて出かけた。

 当時世間では、「飲んだら乗るな」が叫ばれたが、往々にして、酒が入ると悪魔に誘われる如くハンドルを握り事故を起こす事例は日常茶飯事の時代であった。

 酒は各地の銘酒を好んで飲んだが、車を運転する限りは、甘酒など出されても、酒と名が就くものは一滴といえども絶対に口にしないなど実行した。家内もよく協力してくれた。これらは一つの戒律のようなものであった。

 退官しての解放感は、自分の仕事をやり遂げたことへの充実感・満足感と様々な自分に課した戒律を解いたことである。  

 退官後は、車で15分もあれば浜名湖へ行けるので、舞坂港付近に出かけて海釣りに熱中したこともあった。日本海の海岸で育ったせいか潮の香りに招かれると子供時代や故郷の宇野海岸に思いを馳せた。今もって潮の香りは心を揺さぶるものがある。

 酒の方は、歳とともに飲めなくなった。せいぜい酒席で飲む程度となった。人生はやれる時に精いっぱい取り組み、楽しむがよい。