昭和の航空自衛隊の思い出(203) 学級通信と「〇〇だより」への発展

1.岸田善吉先生の「養心録」と関本孝三先生の「学級通信」

 自衛隊生活において、最も子供の学校と係ったのは小松基地勤務の時であった。勤務の関係で授業参観にはあまり出席できず、もっぱら家内が出かけていた。小松では次男が串小学校4年~5年に在籍した。担任の関本孝三先生はとても教育熱心で、毎週ひんぱんに「学級通信」を発行しておられた。

 日本は、昭和20年8月、大東亜戦争戦に敗れ、戦後教育の混乱の中で、昭和22年私が小学6年の時の岸田善吉先生は毎日子供たちに「養心録」を書かせ、日記・作文を通じて素直な心を養うことを求められた。(2014-02-27 心のふるさと(17)「宇野小学校における担任先生」の「岸田善吉先生」参照)

 その後、当時有名になった無着成恭先生の「やまびこ学級」が話題となり全国に波及していたったことを覚えている。私にとっては、すでに恩師岸田善吉先生が、戦後間もなく綴り方教室ならぬ「養心録」をもって生活記録を進めておられた。

 ちなみに、「やまびこ学級」については、出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』によると、次のように記されている。

「『山びこ学校』(やまびこがっこう)は、山形県山元村(現在は、上山市)の中学校教師、無着成恭(むちゃくせいきょう)が、教え子の中学生たちの学級文集、内容的には生活記録をまとめて、1951年(昭和26年)に青銅社から刊行したもの。正式名称は、『山びこ学校―山形県山元村中学校生徒の生活記録』である。」

 私自身が、はるか30年前に岸田善吉先生の「養心録」を経験していたので、小松基地に転勤して、子供が持ち帰る関本先生の「学級通信」は内容が素晴らしく非常に驚いた。どの家庭もそうであったようであるが、親の方も熱心に読み出した。内容に親をも惹きつけるものがあったからであろう。

 そうしたことから、関本先生からも所感を求められることもあり、子供を通じて先生に届けると、次回は早速、学級通信に短い所感が何回か掲載されたことがあった。先生は忙しい毎日であってもガリ版刷りで定期的に発行された。常に子供と直接関わりたいと語られ、「教育一筋」に徹しておられ、私の小学校、中学校の恩師と重なるところが多かった。

 昭和52年8月、府中基地へ転勤に伴い子供は小金井市へ転校したが、以来何十年と関本先生にはご厚誼をいただくことになった。

 

2.部隊における「〇〇だより」の発行

 小松基地勤務における関本孝三先生の「学級通信」から学び新しい発想が生まれた。将来、部隊指揮官に補職されることがあれば、「隊内通信」といった形で、基地新聞とは異なった隊内のコミュニケ-ションの一手段として取り入れられないだろうかと考えるようになった。

 昭和50年代は情報化社会に進みつつあり、こうしたやり方を隊内で取り入れるとすればどのようなやり方があるのか諸資料を収集し研究することにした。自分なりの構想もまとまり策案を持つに至ったが、各級司令部の幕僚勤務が続き指揮官職への道は遠く、なかなかその機会に恵まれず胸のうちに温めていた。 

 昭和58年3月、西部航空警戒管制団司令部人事部長を拝命して、6年間温めてきた策案を実行する機会がやってきた。着任して間もなく、団司令・副司令にその構想を説明し承認をいただき、「服務だより」「訓練だより」及び「厚生だより」を編集発行することとなった。細部については、後年の西警団勤務において述べることにする。

 退官後、隊友会浜松支部長に就任するや、隊友の情報連絡紙「隊友はままつ」を創設した。地域社会で自治会長になって「自治会だより」の創刊、更にはシニアクラブで「いきいき神原会」、花の会で「花だより」を創刊した。今日に至るもそれぞれが内容形式に変化はあるが継続発行されている。嬉しい限りである。

 今日、情報化社会といわれて久しい。どんなに新しい機器や運用方式が生まれたとしてもそこにあるのは人間集団である。人の心を結び付けるものは何か、何を一番求めているか、それを手助けするものは何かが核心ではなかろうか。

 その原点は、恩師の岸田善吉先生の「養心録」、関本孝三先生の「学級通信」、そこに流れていたものは、どの子供も伸ばしてやりたいとの誠心、子供の心を結び付けたい、親たちにもその輪に加わってもらいたいとの切なる思いではなかったのではなかろうか。

 私の心に芽生えた「〇〇だより」構想は、長い歳月を経たが幸いにして実現することができた。形式・内容など足らざるところばかりであったが、組織は人と人とのつながりであり、それを結びつけるに有用であったことは確かであった。その成否は内容・形式の如何ではなく、後継者が創設の心を継承し、継続するかどうかの固い信念にかかっているのではなかろうか。

 かって、今村昭八氏(隊友会参与、元浜松基地司令、元静岡県隊友会会長)は、隊友会関東甲信越静担当理事をされたとき、「隊友はままつ」について、全国組織・隊友会の機関紙「隊友」に次のような寄稿をされた。

 2013-07-05 情報・連絡紙いろいろ(2) かわら版が成長した「隊友はままつ」!から抜粋

隊友会関東甲信越静担当理事今村昭八氏の「かわら版」の総評(H14.10.15)!

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《今村昭八氏の隊友会機関紙「隊友」の「かけはし」》

今村昭八氏は、航空自衛官出身で地元の浜松基地司令も歴任された静岡県の名士のお一人である。

 静岡県隊友会長として活躍され、「浜松防衛団連合会」生みの親のお一人でもある。

 平成14年10月14日号の隊友会機関紙「隊友」に「隊友はままつ」について寄稿されたものです。

 記事の中に、当時のことがすべて網羅されており、ありがたい貴重な記事である。

 隊友会における浜松支部の活動は、全国でも名実とも有名で自衛隊と市民との架け橋となっている。