昭和の航空自衛隊の思い出(202) 未来を見据えた 十年会への参加

1. 地域の指導者の集まり小松市の十年会への参加と交流

   平成50年8月から52年8月まで小松基地の第6航空団で勤務した。入居先の小松市野立町の野立官舎は一つの町を成していて「野立町町内会」があった。

 当時、町内会長は基地業務群司令能登久弘1佐であり、団司令部人事班長(3佐)の私が副会長となった。隣接町内会との連絡調整等は副会長が担当したので、行き来をしているうちに自然と隣接町内会の役員と親しくなっていった。

 こうしたことから、隣町の串町、村松町の中堅・壮年で「まちづくり」に熱心な人たちで結成した「十年会」を知るところとなり、請われて飛行隊長の井野英夫さん(防大2期・当時2佐)と一緒に会員になることになった。

 十年会も地元育ちの集団であることから隣接の自衛隊官舎地区から2名ほど自衛官に加わってもらいたいとの希望があった。花形のパイロットと一般の幹部ということで2名に決まった。

 十年会は、官舎のすぐ隣に住んでおられた金沢大学名誉教授の田島外男先生が会長で会員は串町及び村松町等のやる気満々の現職町内会長を始めとする中堅・壮年たちで結成されていた。10年前を振り返り、10年先を見通して町の振興発展を目指して研さんに励む人材の集まりであり、当時よくもこうした先進的な「未来を見据えたまちづくりのグル-プ」があるものだと驚いたものであった。

 参加してみて分かったことは、十年会の会員の職業はまちまちであったが、常に向上心に満ちて愛町心の非常に強いのに感心した。小松市小松基地共存共栄の関係にあり、隣接町内会も基地に対する関心が強く、自衛官2人が加わって大歓迎された。お互いに大きな刺激を受けることになった。

 ちなみに、当時のメモで十年会会員を列記して見ると、串町の十年会副会長中沢勇次‣串町町内会長中田一男・西直作・江前義雄・分校外茂治・田渕隆・上川正信・若林喜一郎・薬師三郎‣江縁秀一・西田秀雄・森川徳栄・中村傳平・麻田秀信・麻田孝二の各氏、村松町八十山辰男・松本昭夫の各氏、串茶屋町山副武男氏などであったように記憶している。

 特に「自分たちの住む町は将来どうあるべきか」と今でいう先進的な「未来を見据えたまちづくり」に目を向けていた点が、ものすごく大きな感動をに与えたものだった。

 

2.基地司令の講演と基地見学

 定期的に専門の講師を招き勉強会を開いた。基地司令の園部昌光将補にも講演をしていただいたり、会員家族も参加した基地見学をしたこともある。 

 

f:id:y_hamada:20151119074004j:plainf:id:y_hamada:20151119073844j:plain

f:id:y_hamada:20151119073806j:plain

《 十年会会員及び夫人等の基地見学、私の家内と三男も参加した。 》

 

3.串町会館の建設とまちづくり

 昭和52年8月、小松基地における2年間の勤務を終えて、府中市に所在する航空総隊司令部へ転任した。小松以降は、ほぼ2年ごとに転任したが、十年会の皆さんとは転勤の挨拶状、年賀状等を交わしご厚誼をいただいた。

 とりわけ、会長の田島外男先生からは毎度激励のことば、副会長の中澤勇次さんからは会の状況などの便りをいただくことがあった。お別れしてから8年が経ち、昭和60年8月航空幕僚監部人事課(現補任課)勤務となった折には、串町に小松基地関係で基地周辺環境整備の一環として学習等供用施設「串町会館」が完成した旨「串町会館竣工記念特集号」を送付してくださり、串町や野立町周辺の状況を認めてこられた。

 リ-ダ-シップがあり、人望の厚かった中澤勇次さんは、志しどおり串町町内会長として活躍されており、串町会館の建設委員長として大任を果たされたことを知った。副委員長、委員の顔ぶれは十年会でお世話になった方々であった。

 かって、小松において地域の人々の熱い情熱とまちづくりに寄せるエネルギ-を肌で感じて意気投合した人たちが、きっちりとまちづくりにその役割を果たしていることを知り感動したものである。

 こうしたこともあって、当時の中澤さんの書簡と串町会館竣工記念特集号は今日に至るも保存してきた。その背景には、これが本当の地域を愛する指導者の姿ではなかろうかと思ったからに他ならない。この特集号の中に、未来を見据えて考え思うだけではなく、必ず実行するというまちづくりに寄せる真の姿と心を見たからであった。

 私が自衛隊退官後、地域の活動、とりわけ自治会活動とまちづくりに執念を燃やしたのは、小松在勤時の町内会活動と十年会との関わりに始まり、その後の各地の官舎地区における自治会活動や各所の見聞によって形成されてきたように感じている。

 自分の終の棲家となった地域において、多少なりとも地域に貢献できたことは本懐である。地域活動を通じて長年胸に秘めた思いが実行できたことに感謝している。

 

f:id:y_hamada:20151119130948j:plain

 《 昭和60年8月、50歳にして、初めてにして最後の航空幕僚監部人事課(現補任課)勤務となった。串町町内会長・会館建設実行委員長の中澤勇次さんから丁重な祝辞とともに「串町会館竣工記念特集号」が送られてきた。この舘報の中に鵬中澤さんはじめ十年会の皆さんの活躍が記録されていた。》

 

f:id:y_hamada:20151119125950j:plain

 《 昭和60年3月、「串町会館竣工記念特集号」16ぺ-ジ 》

 

f:id:y_hamada:20151119130434j:plain

 《 串町学習等供用施設「串町会館」 》

 

f:id:y_hamada:20151119132036j:plain

《  串町学習等供用施設建設委員会の組織、小松時代に十年会でお世話になった人たちが役員に名を連ね活躍されていた。中澤委員長の式辞の中に、十年会で一緒に会員になった井野英夫1佐(防大2期)が、石川地方連絡部長(現石川地方協力本部長)として本事業に積極的にお世話をしたことが述べられており、奇縁というものを感じた。》

 

4.自衛官人生と退官後の歩み 

 80歳にして、人生とは生まれた時からあの世へ旅立つまで連綿として続くものであることを強く感じる。一つの出来事だけを見ると単独の事象のように思えるが、突然変異ではなく実は繋がっているものだ。

 自分の歩んだ人生を振り返るとき、それぞれの時代・世代の生きざまはすべてが大きな流れの中の連続したものであることに気付くのである。子供の時代は親の背中を見て育ち、家族を持って一家の大黒柱となると、自分の身の丈に合った人生を築こうと挑戦し努力する。成功も不成功もない。自分の歩んだ人生がすべてである。

 退官後の地域社会における諸活動も、両親の背中を見て受け継いできたように感じることがある。自衛官人生における町内会・自治会の活動への参画も偶然ではなく、親のDNAの賜物であったように思うようになってきた。

 自衛官人生の中で、本務とは異なるように見えた自治会活動への参加は私の人生を豊かにしてくれた。ありがとうと感謝している。