山門の人生の教示  憎しみと心のゆとり  

 浜松市西区神ケ谷町洞雲寺の今月の言葉は「仏の心で見るならば憎しみよりは可愛さ百倍」と「ゆとりもてば自然に眼が開き自然の中に生きれる」である。この言葉も年代、年齢、性別、今おかれている環境などによって異なってくる。難しく考えず、それぞれの立場で解釈すればよいのではなかろうか。私はこのように思った。

 

「仏の心で見るならば憎しみよりは可愛さ百倍」

 歳を重ねると、物事を見る眼つきがしだいに変わってくる。まなざしも柔和とるものだ。それは、多くは当事者たる事柄から離れて圏外に去るからであろう。当事者でいるときとそうでないときの違いであろう。

 子どもとの関わり一つとっても、若い時は子供の育児・教育とかいろいろなことに一生懸命であるが、子育ても終わり、仕事も終わり、自由な身となって生活するようになると物事の一つ一つに縛られることが少なくなった。

 渦中の人ではなく、第三者的な立場でいられるようになったことであろう。とりわけ孫への感情などは特別なものとなってくる。

 特に、神様や仏さまに近づくわけではないが、老境の心は次第に静かなものとなってくる。一つの仏心といえるかもしれない。その心は万物をいつくしみ慈悲の心に近くなるといえそうだ。人の世界は憎しみ合うよりか、お互いをしかるべき存在として認め合うのが一番座りがよい。

 人は時に腹を立てるもよし、憎くむもよし、だが長い憎しみはいただけない。己の心を傷つけ苦しむだけである。多くのことは時が解決することがある。最後は水が流れる如く、一切を流すが良い。あの世にだけは憎しみを持っていきたくないと思う。人の一生は最後、「ありがとう」の一語に尽きるであろう。

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《 「仏の心で見るならば憎しみよりは可愛さ百倍」 》

 

 「ゆとりもてば自然に眼が開き自然の中に生きれる」

  ゆとりといえば、年金生活者は、時間に縛られず、思いのままに過ごすことができる。物心両面のゆとりがあればそれに越したことはない。お金の方も普通に生活すれば何とかなっている。お金は上を見ればきりがないのでここでは言わないことにする。

 問題は、心のゆとりである。時間、空間的なゆとりといえば、年金生活者は大体同じようなものだが、心のゆとりは各人によって千差万別である。高齢者の場合、心のゆとりは増してくるものだ。

 一つ大きな障害、阻害要因となるもの、その大敵は病気であろう。一病息災ということばがある。後期高齢者になれば、持病のいくつかは当たり前になるが、これをどのように受け止めるかによって、身体のゆとりと心のゆとりを左右する。気は病からだといわれている。身体にゆとりがなくなれば心のゆとりを虫食むことになる。

 こうしてみてくると、ゆとりの究極のものは、「心のゆとり」であろう。これも歳を重ねていくにつれて自然に生まれてくるものであるが、その人の努力によって大きな差が出てくるものだ。若い時代に精進した分心のゆとりが生まれてくる。

 スポ-ツの世界しかり、猛訓練、精進した分だけ試合で心のゆとりを生みよい結果を出せる。仕事もしかりだ。生まれた心のゆとりは自然に開眼し大きな世界を見させてくれる。

 憎しみとゆとりは、つまるところ、人の心にある。人生の生き方の問題でもあるように受け止めたがどうであろうか。 

 

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《 「ゆとりもてば自然に眼が開き自然の中に生きれる」 》