昭和の航空自衛隊の思い出(195) 自衛官生活のタ-ニングポイント

1.得意なものを一つもつ決意と効用

 芸というにはおこがましいが、昭和36年2月3等空尉に任官して以来、必要に迫られて、皆の前で、自信を持って出来ることをひとつ・流行歌・民謡・詩吟・都々逸・漫才・楽器演奏・演武などどれでもよいから自己表現できるものを持ちたいと考えた。

 当時はマイクなし、カラオケなしの時代で、流行歌が流行っていた。楽器が引けるとか、のど自慢できるような特別な才能があるわけではなかった。

 いろいろ考えた末に、郷土民謡を一つ覚えて地声で歌うことにした。郷里鳥取から資料を取リ寄せたり、レコードを買ったりして一生懸命練習した。「貝殻節」「関の五本松」、島根県の「安来節」であった。

 宴席で指名された時は、日ごろの練成の成果を披露しているうちに、いつの間にやら場を踏んで「貝殻節」は自分のトレ-ドマ-クのようになってきた。何回もやっているうちに自信もついて余裕ができるようになった。小松基地勤務では、どこに行っても、首尾一貫して徹底して「貝殻節」で通した。練成を決意してから14年の年期が入っていた。

 時折、興の乗った宴会では、「ドジョウ掬い」を取り入れて、皆で踊ることにした。見よう真似ようで遊んだといってよいかもしれない。今から考えると、本式に習ったわけでもなく赤面の至りであったが、それがかえってみんなの共感を得ることになった。

 特に着任の歓迎会では皆の意表をついて披露し、自分の一面を知ってもらうことにした。固い挨拶より、ドジョウ掬いで仲間に入ることができた。

  宴会の出し物なども階級・年齢・隊務歴・経験から言っても小松時代は、自分なりの、自分らしい、濵田流が出来上がった。それまではどこか借り物のような感じであったが、自分の考えで作り上げたものを披露できるようになった。

 

2.自衛官生活の大きなタ-ニングポイント

 自衛官生活を振り返った時、小松基地へ勤務したころが、自衛官生活の大きなタ-ニングポイントであったように思える。 

 単に宴会における対応だけではなく、生活全般にも言えた。職務に関しても人事幕僚として今まで温めてきた策案を積極的に提言するようになった。専門幕僚として主導的に活動し、後継者を育成する役割が鮮明となった。俗にいう人生において油が乗ってき始めた時期であったように思える。

 その基盤になったものはなんであったであろうか。操学1期・部内幹候・csの三つがバックボ-ンとなって、使命感、責任感、任務遂行に繋がっていったように思える。

 

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《 背中に座布団を入れて、片鼻に黒くした五円玉を糸で付けて、安来節に合わせて、面白おかしくドジョウ掬いの真似をしては踊ることにした。結構みんな仲間に入り、爆笑のひとときを過ごしたものである。翌日からは上下左右の関係も和やかになり、職場のみんなと心を合わせることができた。》

 

3.宴会スタイル

 自衛隊の宴会はすべて自前である。飲代は全部自前であり、会費制であった。その上に役職は多少ご祝儀を出した。歓迎会、送別会、団結会等すべて自前であった。昔よく世間で言われた、社用族なるものは全く存在しなかった。職場のお茶に至るもすべて皆で出し合ったお金でお茶を買って飲んでいた。これが自衛隊である。

 厳しい職務・環境であればあるほど宴会もよくやった。宴会を通じて心が通じ合えれば仕事は円滑に運ぶ。厳しい職務であってもお互いがその労苦を分かち合えれば苦労と感じないものだ。胸襟を開いて言いたいことが言えた時代であった。

 

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 《 人事部の宴会、温泉どころで、和気藹々と過ごした思い出がいっぱいだ。 》

 

4.山中のキャンプ

 山小屋に1泊してのキャンプは格別であった。戦闘航空団という厳しい環境にあったが、その分だけリラックスして英気を養ったものである。こうしたことができたのは兵頭俊策人事部長の人徳であり、指揮統率の結果であったように思う。

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《 山中の山小屋の前で兵頭部長を囲んで語りあった。左から三角熊雄君、武者宏君、村田典生班長、濵田、兵頭俊策部長、工藤勲君、北川義雄君 》