昭和の航空自衛隊の思い出(193)  戦闘航空団における幕僚勤務

1.戦闘航空団に勤務した幕僚の気概

    小松基地・第6航空団に着任して、最初に感じたことはスクランブル体制下にある戦闘航空団であるとの緊張感であった。この緊張感は自衛官特有のものであろうか。

 かって要撃管制官として防空指令所に勤務し、スクランブル発進機を要撃管制した経験や時には先任指令官として彼我不明機に対して、戦闘航空団のアラ-ト・センタ-へスクランブルを下令したことやがよみがえり胸が高鳴ったものである。

 職務の内容は異なったが人事幕僚として、待機についているパイロットと同じ思いであった。いつどこでも駆けつけるぞという常在戦場の気持ちを在勤間持ち続けた。

 戦闘機部隊であるだけに、通常勤務といえども全機着陸・飛行訓練終了を確認してから帰宅する生活が始まった。また、事故等への対応は初動を最も重視し、いついかなる時でも速やかに司令部へ登庁し、諸事にあたるぞとの固い決意をしての勤務であった。

 

2.戦闘機部隊・警戒管制部隊・高射部隊

 幹部自衛官に任官後、中部航空警戒管制団で警戒群・基地業務群・整備補給群及び団司令部、高射部隊は短期間ではあったが教導高射隊、今回の第6航空団で、航空自衛隊の三本の鉾先である戦闘機部隊・警戒管制部隊及び高射部隊の現場に身を置き隊務を経験することになった。

 それぞれの任務と部隊特性を担当業務を通じて理解・精通していったことが、その後の航空総隊司令部勤務、飛行教育集団司令部勤務、更には後輩の育成に活かされることになった。

 

3.第6航空団の組織

❶ 第6航空団組織

  団司令は園部昌光将補(陸士57期)、副司令酒井眞1佐(海兵75期)であった。園部司令には、昭和47年7月から1ケ年指揮幕僚課程において課程主任として指導を受けた。酒井副司令には、昭和30年6月から10ケ月第1期操縦学生基本課程において、隣の第2区隊長(2尉)として訓育指導を受けた。不思議なご縁であった。

 隷下の主要指揮官は、飛行群司令栗原邦夫1佐、整備補給群司令立山元春1佐及び基地業務群司令能登久弘1佐であった。

 能登1佐とは同じ野立町官舎地区に居住し、能登司令が自治会長、私が副会長に指名され自治会業務を果たすことになった。こうしたご縁で隣町の町内会長等との付き合いが始まり新たなる自衛官人生に発展することになった。  

 

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 司令部組織

 第6航空団司令部の組織機能は、他の航空団と同じであった。

 

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 当時、第1期操縦学生同期には、防大に進んだ児玉節正2佐が司令部安全班長、飛行隊では村山昌道3佐などが活躍していた。

 

4. 人事部人事班長の職務と修練目標

 当時階級は、3佐で中級幹部の前期にあたり、職務は司令部班長で3佐の配置であった。この職位は職務の特質からすると編制単位群部隊を束ねる司令部の専門幕僚・組織の長であった。特技としては人事職域で主として単一特技における業務であり、職務は企画層に位置し、実務推進の中核であった。

 人事幕僚はあくまでも幕僚職であって、指揮権を有する指揮官職ではないが、意識としては班という「組織の長」というよりもっと強い「班の指揮官」だという認識であった。

 その考え方の当否は別として、その根底には幕僚として人事業務に長くたづさわった関係から部下の数に関わらず、内面の自覚は指揮官に対しての幕僚であったが、部下に対しては小人数といえども「班という単位の指揮官だ」という強い気持ちを堅持しそのように行動した。その心は「幕僚職を通じて指揮官職を極める」という信念のもとに、いつでもどの指揮官職を命じられても恥じない体制を整えて準備しておくという考えであった。

 自らに課した修練の目標は、幕僚道を極めつつ指揮官道を目指すことにあったように憶えている。したがって、心は錦で充実した勤務となった。

  

5. 人事部の陣容

     人事部長は兵頭俊策2佐の下、人事班、訓練班、厚生班及び援護班から成り立っていた。人事班は私のもとに幹部及び事務官等人事担当の長橋定男事務官、次いで三浦彬史事務官、准尉・曹士人事等担当の金田一義2曹、大野浩美2曹、北川義雄2曹、太田勲(旧姓工藤)3曹、人事記録担当の原貴美子(旧姓裏谷)事務官、安達由貴子(旧姓黒崎)事務官であった。訓練班は班長村田典生1尉、三角熊雄1曹、鶴見正男2曹、援護班長泉芳男事務官、清水稔1曹であったと記憶している。厚生班長は基地業務群業務隊長の兼務であった。

 2年間の勤務であったが、人事部は非常にまとまりがよく、上司・同僚・部下とも一緒に仕事をした戦友といった感じが今も強く印象に残っている。千里浜海岸や山奥でキャンプをしたり、盛大に盛りあがった忘年会で地元の名酒を酌み交わした印象が今日に至るも強烈に残っている。

 

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《 昭和51年ごろ訓と思われる。訓練班三角熊雄君を囲んでの記念撮影、前列左から訓練班長村田典生1尉、人事部長兵頭俊策2佐、訓練班三角熊雄1曹、人事班長濵田喜己3佐、援護班長泉芳男事務官、後列左から人事班太田勲3曹、人事幹部三浦彬史事務官、人事班大野浩美2曹、掩護班清水稔1曹、北川義雄2曹、訓練班鶴見正男2曹、人事班金田一義2曹 》

 

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《 昭和51年小松基地盆踊り大会、前列左から援護班長泉芳男事務官、人事班長濵田喜己3佐、人事部長兵頭俊策2佐、訓練班長村田典生1尉、後列左から北川義雄2曹、掩護班清水稔1曹、訓練班三角熊雄1曹、人事班大野浩美2曹、人事班太田勲3曹、人事幹部三浦彬史事務官、人事班金田一義2曹、全員浴衣姿である。》

 

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 《 昭和50年8月、着任して間もなく、名峰白山登山訓練があるというので参加した。登頂記念に買った「ライチョウ」の木彫りがわが家に今も飾ってある。当時士長のの太田君と撮影 》