昭和の航空自衛隊の思い出(189) 九州勤務における生活

 1.九州の5回勤務と名所巡り

 鳥取県の生まれであるが、35年余の自衛隊勤務で九州には縁があったようだ。昭和43年芦屋基地の人事幹部課程入校、48年今回の春日基地の西部航空方面隊司令部、56年芦屋基地の第3術科学校における人事総務・要務・教育技術担当の第4科長、58年春日基地の西部航空警戒管制団司令部人事部長と5回九州所在の基地に勤務することとなった。

 したがって、九州での在勤間、休日には自家用車で家族を連れて観光も兼ねて名所旧跡を訪ねて各地を回った。今回の春日基地勤務では本格的に九州の名所を順次回った。担当業務は多忙を極めたが、小幕僚の一員であり、勤務時間外は割合に時間的な余裕があった。基本的には日曜日の早朝車で出発し、夕方に帰ってくる行程であった。時には休暇をとって鹿児島、宮崎方面に宿泊して遠出をすることもあった。

 家族旅行が主であったが、親や親戚などが来訪した時は案内をしたものだ。いま今考えるとよき時代であった。

2.勤務地の記念の品物を買う

 転勤族の良いところは、その土地に居住するとその土地の歴史文化や名物の物産などの状況がよく分かるようになるものだ。他所への旅行であると思い付きの買い物になってしまうことがあるが、転勤を重ねるにつれて、その土地柄に慣れてから、じっくりと考えて品物を選び、お世話になっている親戚等に贈り物をした。高価なものではなかったが得難い贈り物であった。

 春日基地勤務では「博多人形」、「唐津焼」、芦屋基地では「芦屋窯」などわが家の客間に飾られており、往時を思い出すことができる。良き思い出である。 

3.お世話になった官舎での生活

 官舎生活は、家族にとって喜びも悲しみもいっぱいの思い出の場所である。幸いにして元気な子ども3人に恵まれた。春日基地における官舎生活は最初の大野城市の筒井官舎は一住民であったが、2回目の春日基地勤務は春日市の官舎自治会の会長に指名された。

 筒井官舎では子供たち2人は小学生で、末っ子は3歳であったが、近くの航空方面隊司令部監察官の船越一郎1佐(空将)宅では明子夫人にわが子同様に可愛がっていただいた。いつの間にかいなくなくなっていると思ったら、ひとりで上がりこんでご馳走してもらうことがしばしばであった。

 今にして思えば、粗末な官舎ではあったが、戦後はやったNHKのラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌が「とんがり帽子」や向こう三軒両隣といった感じであった。

 夫婦とも最初は官舎の皆さんに助けられることばかりであったが、次第に歳を重ねるにつれて、各地を転勤しながら周りの若い家庭には少しでも力になってあげられるようになっていった。自衛隊生活の大部分は官舎生活であったことから良き思い出を積み上げることができたことに感謝している。

    家内の手芸などの趣味は官舎生活から形成されていったといって過言ではない。多彩な趣味を持つご夫人たちがお互いに教え合う ことによって素晴らしいコミニティが出来上がっていったように覚えている。俗にいう夫の階級をかさにして威張るといったことを経験したことはなかったと妻は回想している。

 当時は幹部自衛官の妻は、ひたすら家庭を守るというのが世間一般の習わしであった。今日のようにお互いに職業をもって生活する時代とは違っていた。せいぜい家庭でできる内職をする程度であった。お互いの行き来があった懐かしい良き時代であったといえる。