昭和の航空自衛隊の思い出(188) 西部航空方面隊司令部の人事幕僚

1. その時何を考え立ち向かったか 

    「昭和の航空自衛隊の思い出」は、昭和30年6月から平成2年3月まで35年余にわたって航空自衛官として部隊・機関・団、方面、総隊の各級司令部及び航空幕僚監部に勤務した。この間どんなことを考え立ち向かったのか人生の総決算としてまとめがらブログ化しているものです。
 特に才能に優れたり、飛び抜けた功績があったわけでない。言うなればどこにいた普通の自衛官の一人であった。強いて言えば操縦学生から転進した部内幹部出身であったということぐらいであろう。
 航空自衛隊は、昨年、創設60周年を迎えた。昭和の航空自衛隊の全体像を私ごときが語ることなど毛頭考えてもいないし、出来ることではない。
    大組織にあって、一隊員の勤務経験などたかがしれているが、私が歩んだ足跡を基軸に自衛官人生を綴ることはできる。
    その主点は昭和の航空自衛隊に勤務した当時を回想し、自衛官の勤務経験と生活を軸に、どのように勤務し、どんな問題と取り組み、何を考え、行動したか。どんなことに悩み、立ち向かったかなどを「昭和の航空自衛隊の思い出」として綴っているものです。
 自衛官生活を振り返って、昭和の自衛隊は、すべての隊員に「創造」「挑戦」「前向き」が求められ、その気になればいろいろなことができた時代であった。
 
2.西空司勤務時代のアルバム

    航空自衛隊勤務間におけるアルバムは基地・部隊ごとに数冊あるので30数冊以上ある。この中で西部航空方面隊司令部勤務のアルバムだけがどこかに紛れ込んで見つからない。

    多くの場合、写真を見れば記憶がよみがえるものであるが、写真で確認できないとなかなか思い出せないものである。何十年前のこととなると 意外に他のこととダブッていたりして、こんがらがってその糸を解きほぐすことはなかなか難しいものだ。

 

3.私にとっての西部航空方面隊司令部勤務

❶ 自分に課された部内幹候出身の役割の自覚

 昭和48年7月指揮幕僚課程を卒業し、西部航空方面隊司令部に補職され人事部人事班配置となり、准尉、空曹及び空士の人事を担当した。階級は1等空尉・38歳であった。年齢と階級面から見ると部内幹候出身であることから防衛大学・一般大学出身者と比べたら5~6歳位歳を食っていた。

   前任者の戸村英雄3佐(外9期)は、人事業務に精通した先輩で、俊腕を振るっておられたのが強く印象に残っている。

 指揮幕僚課程で一年間様々な出身・職種のみんなと交わったせいか、昇進が早いとか遅いとか、歳を食っているかどうかなどは全く胸中や眼中になくなっていた。不思議と他人と比べたり、競争する気持ちが全くなくなっていた。むしろ仕事中心でわが道をいくといった心境になっていた。これはある程度自分の人生を見通せる年齢になったせいなのかもしれなかった。

 そこにあったものは、むしろ部内幹候出身者として自分なりに自分の心に恥じない仕事をやり遂げたいという思いが強かったように記憶している。

特に気負っていたわけではないが、部内幹候から選抜試験に合格し指揮幕僚課程を学び卒業したことにより、部内出身の代表の一人としての役割を背負うことになった。これは特に誰からも命じられたわけではないが、自然にそのような使命を課されていると思うようになっていた。

 次への飛躍の基盤づくりと総仕上げの場

 司令部活動と幕僚勤務について、航空方面隊司令部ほどすべてにおいて経験できる部署はないといって過言ではない。防衛区域における作戦は方面隊単位で行われ、人事面においてもすべての権限を有しているからであった。

 人事分野において、群レベルの人事班長を経験、団司令部班員を経て、航空方面隊司令部勤務となったことは、人事幕僚としてすべての業務を経験することとなり、自信を持って幕僚勤務をする基盤を確立することができた。

 方面隊司令部勤務に至るまでは、長い道のりではあったが、現場における幾多の実務経験を積んでしっかりと実力を身につける修練期間でもあった。従って、私にとっては、小幕僚ながら航空方面隊司令部勤務は次へ飛躍する総仕上げの勤務であった。

  2年間の勤務のうち1年間は、方面隊レベルの人事業務を習得し自信もついた。昭和49年7月に3等空佐へ昇任した。後半の1年は担当業務以外の幹部人事、服務等についても関心を持って自発的に研鑽に努めた。

 人事幹部としては、佐官への昇任は大きな飛躍台に上る機会となった。私にとって、航空方面隊司令部は、色々な点から人事幕僚としての基礎修練の総仕上げの場となった。 

❸ 司令官及び幕僚長と副官経験

 西部航空方面隊は、司令部が春日基地にあり、空将の司令官及び空将補の幕僚長が配置されていた。2年間の在任間、司令官は藤沢信雄空将(陸士53期)、次いで徳丸明空将(陸士54期)にお仕えした。幕僚長は浦忠久将補であった。司令官及び幕僚長室には、准尉・空曹の昇任・異動・充員計画の決裁等で出入りをした。

 幕僚勤務にあたっては、航空警戒管制団司令部において2か年の副官勤務を通じて多数の将官に接してきたので、司令官・幕僚長、副官室への出入りは要領を得ており、物おじしないで幕僚報告、決裁を仰ぐことになった。

 時の浦忠久幕僚長には、昭和49年7月将補に昇任された直後、決裁を受けに行ったら、いままで着用されていた英国空軍大佐のネクタイピンを頂戴した。後年、1佐に昇任した時から着用し、今日に至るも自衛隊関係の行事に出かけるときには愛用している。  

 

4.西部航空方面隊司令部の人事部

❶ 人事部長 

 人事部長はパイロット出身の轟哲夫1佐(陸士58期)であった。轟部長は温厚な方で幕僚勤務を懇切に指導いただいた。将補に昇任され、飛行教育集団司令部幕僚長を経て、第16代第1航空団司令(昭和53.3.31~54.7.31)を歴任された。次いで、髙橋英正1佐(陸士60期)にも厳しく鍛えていただいた。

❷ 人事部各班長

 人事部は人事班(班長船橋通郎2佐、次いで牛尼敬二2佐)、職員人事班(班長佐々木義民事務官)、訓練班(班長佐藤計俊2佐)及び厚生班(班長佐藤達雄2佐)からなっていた。

❸ 人事班の陣容

  人事班は、班長のもとに庶務、服務、幹部人事及び准曹士人事担当からなっていた。班長は船橋通郎2佐、次いで牛尼敬二2佐であった。人事班における私の担当は准尉・空曹及び空士の人事であった。

 同僚の人事幕僚は、幹部人事担当の宮崎弘3佐(外16期)、次いで安長豊1尉(外34期)、、服務担当梶原末一1尉(3候6期)であった。 

  先任は永友忠光准尉、岡本英気准尉のほか直接の部下は昇任・昇給業務担当の本城武治1曹、充員計画及び異動業務担当の井上功一2曹であった。小嶋将人2曹、古賀元治3曹、吉田儔史3曹、柳田秀文士士長の各君とも同じ班で一緒に仕事をした。

 人事記録担当は水城滋子さん、梅崎正子さんであった。水城は、後年幹部事務官となって活躍することとなった。 

5.方面隊司令部の幕僚勤務で学んだもの

❶ 航空作戦部隊の司令部勤務をした確固たる所信

 私にとって、方面隊司令部は作戦的体質を保持している司令部であることが、常に緊張感を持って勤務できたことであった。人事幕僚として、戦える作戦部隊の司令部という気風が自分の性格や膚に合っていたようだ。

 青年幹部時代に要撃管制官として最前線で24時間勤務について防空任務に励んだという気概があり、作戦部隊における作戦運用と人事のあり方を自分なりに深く追求する機会を与えられたことである。 

 このことは、後年、航空自衛隊の最高の作戦司令部である航空総隊司令部において人事幕僚として、再び 准尉・空曹及び空士の人事を担当することになり、更に確固たる所信を持っようになった。

❷ 人事幕僚としての基盤づくりと次へ飛躍する総仕上げ

 司令部活動と幕僚勤務において、航空方面隊司令部ほどすべてにおいて経験できる部署はないといって過言ではなかった。特に、方面隊司令官は准尉及び空曹の任免権者としてすべての権限を有していたことから、その行使にあたる幕僚勤務は厳しいがやり甲斐のある職務であった。

 方面隊司令部勤務に至るまでは、長い道のりではあったが、幾多の修練を重ね実力を蓄える期間でもあったことから航空方面隊司令部勤務は基盤づくりの総仕上げと次への飛躍の準備の期間ともなった。

 何故ならば、司令部活動では、班員は班員であって一幕僚にすぎない。策案を案出し班としての方向性に大きな影響をを与えることはできても、あくまでも班員である。また、担当職務について大いに活躍することができるが、その範囲は限定された担当職務だけに限られる。班長になってそれ相応の職務と責任を与えられて自分の本当の実力を発揮できる機会を持つことができる。

 一般的には、階級・部隊経験・年齢からすれば、編制単位部隊長、俗にいわれる「隊長」「中隊長」職に相当する配置につけるところになっていた。 

 次の補職でそれが実現することとなった。 

❸ 上級司令部から見た隷下司令部活動のあり方

 隊・群・団・方面隊と部隊は異なるが各段階の勤務経験は、人事幕僚として得難いものであり貴重な財産ともなった。特に方面隊司令部の勤務によって方面隊司令部及び団司令部の双方から見た司令部活動のあり方を経験したことは幕僚勤務に有益となった。

 上から見た場合と下からも見た場合、客観的な立場におかれると活動状況がよく分かるものである。今何が期待され、求められているのか 、やるべきことは何か、優先順位はどうするのかといった大局的に物事を判断する立場におかれたからであった。

❹ わが命題への取り組みと方向性の具体化

 人生にはある年齢に達すると自分の役割等が見えてくるものである。操縦学生・一般空曹・部内幹候・指揮幕僚課程を経て、人事幕僚としての自分の今後の命題の具現化を明確に意識するようになった。

 幹部自衛官として約7年の要撃管制官、副官の勤務経験を経ての総務人事班長の配置であり、将来とも人事幹部として進むのであれば、自分なりに大きな目標を胸に秘めて取り組んでみようと思ったことが、明確に己の胸中にしっかりと描けるようになったことである。

 それは、人事幹部を志したとき、今後の航空自衛隊の発展充実に対応して「総務人事業務はどうあるべきか」、「空曹の役割と活躍の場はどうしたらよいか」、「離島等の勤務者の処遇と人事管理はどうしたらよいか」及び「青年隊員の服務指導はどうしたらよいか」の四つの課題・自分に課した命題であった。

 自分に課した命題の背景については、以前にブログで触れたが、再掲すると次の通りである。

① 命題を課したきっかけ

 初の総務人事班長・人事幹部を進むにあたって、自分に命題を課したそのきっかけは、整備学校総務課で勤務した折、先任空曹福田正雄1曹が大先任として各部課隊の先任を掌握下におき、総務課長、総務班長の絶大な信任を得て幹部並みの大活躍する姿に接して、是非それを越えるような幕僚になりたいと人事幹部としての将来像を描くに至った。その具体策を命題として自分に課したのである。

 実はこれは建設途上の航空自衛隊の大きな課題でもあり、階級的にも職務と権限のない一幹部の志ではあったが、その時代の自分のおかれた立場で定年退官に至るまで継続してこの命題に取り組むことになった。結果的にはこの大きな課題に向かって挑戦することによって自衛官生活が充実したものとなった。

② 命題設定の背景 

 命題設定の理由は、空士・空曹の経験をしたことで、若い隊員の心情を自分で体験したこと、内務班長を経験したことから時代の推移、意識・価値観、環境の変化等の中で内務班の運営・在り方、服務指導に関心を持ったこと、服務指導担当幹部として今後青年隊員の服務指導についてどう臨むべきか研究する必要があると考えたことにあった。

 陸自の経験、整備学校総務課や航空警戒管制部隊の最前線における勤務経験から、これだけ素質能力と意欲の高い空曹をどのように部隊等の中で位置付けて活用を図るべきかは将来に向けて大きな課題であると考えたこと、特に先任空曹の役割・地位などの向上策が今後の課題であると認識したこと、要撃管制官勤務を通じて離島等の勤務者の処遇と人事管理の改善を図るべきと思ったことなどであった。

③ 部内幹候出身の役割

 当時の部内幹候出身者の経歴管理は、一般的に階級昇進はゆっくり型で、現場の部隊勤務が中心であったこと。年齢を重ね実務能力で部隊活動の中核となり、隊員の育成に貢献することができること、部隊等の状況をスミから隅まで熟知していることなどの特性・長所を持ち期待されていた。

 その上、警戒群本部の運用班長を経験してきたことからすべて部隊運用を中心とした物の考え方で、作戦運用担当幕僚と一緒になって幕僚活動を行うべきだと強く思っていた。総務人事といった枠にとどまらないで、部内幹候出身者の特性を活かして現場の部隊で施策をまとめ実行していきたいと思うようになった。

 

 

 

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《 西部航空方面隊司令部人事部長轟哲夫1佐を博多駅で人事部有志が見送る 》