昭和の航空自衛隊の思い出(185) 忘れ難い地連広報官

1.支援担当地連に対する支援

 昭和48年7月指揮幕僚課程を卒業、任地は西日本の要衛の地である福岡県春日市に所在する西部航空方面隊司令部に人事幕僚として2年間勤務した。当時、隊員の募集採用は氷河時代といえるほど実に厳しい時代であった。西部航空方面隊司令官には福岡・佐賀・長崎・大分・熊本・宮崎・鹿児島の各地方連絡部に対して所定の支援をすることが課されていた。

2.地連広報官に適した隊員の選定 

 私の担当業務の一つに、当該地連に勤務する准尉及び空曹に対する人事業務があった。

 昭和40年代から50年代前半にかけては、今では想像もつかないほどの募集難の時代であった。担当の人事幕僚としては、隷下部隊からいかに地連勤務の募集広報官に向く隊員を選定して送り込むかが課題であった。

 その背景には、昭和48年におけるある管内の1次募集(4月~6月)の募集手段別入隊状況の例で見ると、受験倍率27.9の内自主志願( 窓口受付)8.8%、訪問41.2%、市街地36.1%及び職安18.9%であった。

 当時の状況としては、今では考えられないが、民間会社は持参金付きといわれるぐらいで、自主志願は10%に満たないものとなりつつあったこと、訪問及び市街地勧誘率が増大しつつあり、これが主体的なりつつあることであった。そうなるとこれらは第一線における募集広報官の手腕と活躍にかかっており、いかに即募集戦力となる適任の広報官を選定し送り込むかが重要な業務でもあった。

 また、一方、地連で活躍している航空の広報官に対して陸・海の自衛隊に負けずいかに有効な支援をしていくかが求められていた。こうした視点から担当幕僚として最善の努力を傾注したものである。

 

3.地方連絡部広報官は最前線の戦士

 地方連絡部の任務は募集である。志願者を待っていて、試験をして入隊日に部隊に連れていけば終わりというだけの仕事ではなかった。平素から志願適格者の情報を多く集める情報収集、適確者となれば本人に何度でも会って勧誘し、何度でも親元を訪問して賛意を得る。志願者に志願票を提出させ試験を受けさせる、合格しても入隊意志を継続させる訪問広報を行う。入隊日には引率、身体検査、宣誓、入隊発令までの環境順応のためのアドバイス、親への連絡、入隊後にあっては自分の手掛けた隊員をフォロ-アップし、訓練、職種、任地等の各種の相談に応じたり適切な助言と、募集広報官と入隊隊員とのつながりは緊密なものであった。 

 それだけに、精神的、肉体的、時間的、更には経済的にも厳しい業務であり、まさに「募集広報官は最前線の戦士」であった。

4.忘れ難い地連勤務者

 人事幕僚として、航空自衛隊から派遣している准尉及び空曹募集広報官の中には俊腕を発揮し、良質隊員の獲得に抜群の成果を挙げる一騎当千の者がいた。今風で言うと、当然に「国民の自衛官」として顕彰されるほどの働きをした広報官が多数いたということである。

 私が、昭和48~50年にかけて担当した地連勤務者の中でも、忘れ難い優秀広報官は、約40年前の簡単なメモと記憶によると、執行准尉、三隅俊昭氏(長崎県西彼杵郡時津町)、森山君男氏(福岡県八女郡広川町)、粒山貞雄氏(徳島市城東町)、米丸晄慈氏(福岡地連)、水本毅氏などが今日にいたるも印象に残っている。

 良質の隊員となり得る人を見つけ出す募集業務は、自衛官と言う基盤に立って、おじけることなく一般社会に進出して、営業マン的なセンスとある種の独特の能力が必要とされていた。 

 そこには良質の隊員を確保しようと厳しい任務に従事し、昼夜を問わず職務に専念した広報官の姿が焼き付いている。彼らの存在と活躍ぶりを今日に至るも忘れることがない。今も昔も変わらない困難な任務でも完遂してきた自衛隊があった。

 

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《 当時の地連勤務者講習の写真である。講習の計画実施担当の私を豊富な経験を持ち実務に長けた本城武治1曹が積極的に補佐をしてくれた。彼は実に良く黒子に徹して空曹の本領を発揮してくれた。人事班長牛尼敬二2佐を中心に、左空幕人事課募集班兵頭俊策2佐、右陸自西方航空連絡官大塚基家2佐を配し,つわもの地連勤務の准尉及び空曹であった。左端の前が私、後左端が本城1曹、人の奇縁とは不思議なもので、次の補職では第6航空団司令部において人事部長兵頭2佐のもとに3佐の人事班長として配置され、思う存分働く機会を与えられることになった。》