昭和の航空自衛隊の思い出(177)  博多どんたくと博多にわか

1.博多どんたくと博多にわか

    昭和48年7月、九州は春日基地所在の西部航空方面隊司令部への赴任の途中、車がエンコし、通りがかりの「博多のもんじゃけん」さんに助けられ、博多の町がいっぺんに好きになった。

 春日基地には昭和50年7月まで2年間在勤した。この間、毎年5月の「博多どんたく」には、家族そろって午後から夕方にかけて博多の町に出かけ、お祭りを満喫した。特に掛け合いの「にわか」と「しゃもじ」の行列はいまだ思い出の一つである。 

2 博多どんたく 

 各基地への転勤では、その土地特有の祭りを観てきた。お祭りの中にもそれぞれの土地の長い歴史と文化が織りなすものがあり楽しむことができた。航空自衛隊に入隊して、最初のお祭りは浜松の勇壮な「凧揚げ」と豪華絢爛の屋台の行列であった。次いで、小牧の田縣神社の奇祭であった。

 春日では子供たちを引き連れて一緒に博多どんたくを楽しんだ。博多の街中がお祭り一色でにぎわい、食事をしたりして家族だんらんができた。今でもお祭りの行列の「しゃもじ」の一斉の音が強烈に残っている感じである。そこにはその土地の魅力がいっぱい感じられものである。

 

〇博多どんたくとは  

  (福岡市民の祭り振興会のホ-ムぺ-ジ出典)

博多どんたくの由来
どんたく

「博多どんたく」は、治承3年(1179年)に始まったと筑前国風土記貝原益軒著)に記されている「松ばやし」をその起源とする凡そ830年余の伝統行事である。
筑前国風土記には、『平安時代京都御所の正月、宮中参賀の行事が地方に伝わり、この博多では源平時代のち冶承3年(1179)、正月15日、松囃子を取行う…』とある。
以来、祝いあう行事をシャレッ気の多い博多町人が発展させたものである。

古い文献によれば今から400年前、筑前の領主となった小早川秀秋の居城(東区名島城)へ博多の町人が松囃子を仕立て年賀のお祝いに行ったと記されている。その後、黒田藩の城下町となった「福岡」と博多町人の町「博多」との二つの町が270年間、博多松囃子を通じて交流している。

明治5年、新政府より下りてこられた県知事によって松囃子・山笠共中止させられたが、その後、明治12年に再開され「博多どんたく」と呼ばれるようになった。オランダ語のZondag(ゾンターク、休日の意)がその語源と言われている。

戦時中、一時中断されたが、戦後の昭和21年5月、「松ばやし」と「どんたく」が8年ぶりに復活。肩衣を紙で作り、馬はハリボテを首から胸に下げ、三味線、太鼓などは戦災を免れたところから借り集めて、“博多どんたく”のおはやしを瓦礫の町に響かせながら練り歩いたことが、復興へ大きな勇気を与え、翌年22年には福岡商工会議所が中心となって、戦後初めてのどんたくを開催した。
その後、年に一度の無礼講の行事として年々盛んになっていった。

昭和37年、「どんたく」は、市民総参加の『福岡市民の祭り「博多どんたく港まつり」』となり、現在に至る。毎年5月3・4日の2日間、老若男女が思い思いの仮装でシャモジを叩いて町を練り歩き、町に作られた舞台、広場で踊りを披露し、町中がどんたく一色で湧き返る。参加どんたく隊のべ約650団体、出場者約3万3千人、見物客約200万人、春のゴールデンウィーク期間中、日本で一番の祭りといわれるようになる。

2013/7/29

3.博多にわか 

  行列が始まるまでは、各所に設けられた舞台で、入れ替わり立ち代わりの「博多にわか」のやりとりがあり、面白く惹きつけられたものであった。

〇博多にわかとは

公益財団法人 福岡観光コンベンションビューローのホ-ムぺ-ジ出典 

博多にわかとは 

半面を着け、博多弁で会話し、会話の後に地口のオチをつけて、話を決着させるもの。日常生活や世相を反映させたものや温かいユーモアに包まれた内容のものがあります。

博多にわかの由来

主に四つの説があります。 

一.盆踊り転化説

博多には盆踊りがなく、もともとあった盆踊りが博多にわかに転化したという説。逆に博多にわかが時代を経て一部が分化して盆踊りになったとの説もあります。

江戸時代、即興的、仮装、曳きもの、芝居、踊りなどがすべて『俄踊』と呼ばれており先人たちは、にわかを同系統のものと思ったのではないかとの説もあります。 

二.悪口祭説

 黒田如水黒田官兵衛)公が若い時に姫路の一宮・伊和明神の例祭を見に行き、その中で人々が個人の悪口、政治に対する不満を言い合う悪口祭を見ていつか政治に取り入れたいと思ったそうです。如水公は福岡入りした後に博多の町人たちを一宮・伊和明神に悪口祭などを見学させ博多の町人たちはこの時の悪口祭の精神を博多にわかに変えたという説です。 

三.松囃子(まつばやし)での戯れ言(ざれごと)説

松囃子でお殿様や奥方の前で洒落た冗談や少しの遠慮もなく下品な話で大笑いをさせたり、笛、太鼓、鉦、三味線にてはやし立て、歌をうたい、おもしろい話などをしながら、通って行ったそうです。これが博多にわかに変わったという説です。 

四.大阪俄伝播説

全国的には大阪が俄の発祥というのは通説になっています。俄は数人による段物スタイルで当時の歌舞伎役者のまねやストーリーのパロディ化などがあり、また武士社会への不満などを笑いに変えていったと言われています。

大阪俄も博多のにわかもにわかをする前に「俄じゃ、おもひだした」と言うのが決まり文句になっているようです。

博多に伝わった俄はその後、佐賀や肥後に伝わったとそれぞれの研究者は伝えています。 

博多にわかの種類 

博多にわかは駄洒落とか親父ギャグといったものではありません。

・ 一人一口にわかは、一人で演じるもの。

・ 掛合にわかは、二人で演じるもの。

・ 即席にわかは、お題を頂戴して演じるもの。

・ 段物にわかは、芝居形式で演じるもの。