昭和の航空自衛隊の思い出(173 )  勤務地のお酒文化を楽しむ

1.焼酎中心の宴会

    昭和48年7月、西部航空方面隊司令部に着任して、ほどなく、歓迎会が行われた。恒例の乾杯はビ-ルであったが、その後の酒盛りは焼酎のお湯割りが基本であった。お酒といえば焼酎で、日本酒が出るかと思っていたら、お酒=焼酎であった。

 実は焼酎文化が今日のように日本全国の津々浦々に広まる以前のことであるが、私が子供の頃は、郷里の鳥取の方、私の生まれ育った集落では、焼酎といえば、大酒飲みの飲み物といわれていた。

 子供の時からこうした先入観があっただけに、着任早々の歓迎会では、多少の抵抗感もあったが、「郷に入れば郷に従え」で、無理やり飲まざるを得ないことになった。2~3回までの宴会は、帰宅したら下痢症状があり苦労したが、4回目ぐらいから慣れて、ぴたりと、この症状が止まり、九州在勤間は徹底して焼酎党に転向した。

2.焼酎が身体に合ってきた

 焼酎の良いところは、体調に合わせてお湯で加減できたこと、飲んだ後二日酔いがなくてすっきりした朝が迎えられたことである。何日間かの詰めきり作業などが終わった打ち上げでは焼酎を愛用するようになった。陣中見舞いも焼酎の差し入れが多かった。

 九州における酒文化は、その後昭和50年代に焼酎ブ-ムがあり、全国的に広まっていった。それ以前は、郷里に帰った折、九州在勤中は、大いに「焼酎を飲んでいる」といえば怪訝な顔をされ、随分「お前は大酒のみになった」「貧乏しているのか」と思われ、変わったなぁという顔をされたものである。日本酒一本やりの郷里の酒文化からすればやむを得ないことであった。

今はどうであろうか。

3.土地のお酒文化を楽しむ

 自衛隊では九州出身者が多く、彼らにすれば焼酎はお酒そのものであったが、焼酎の全国的なブ-ム以来、どこの宴会でも焼酎はつきもので幹事としては各人の焼酎の好みを掌握しておくことが必須となった。どこの店でもこうした多様化した焼酎文化が全国レベルになっていったことを覚えている。

 その土地でつくられたお酒は、その土地で飲むと格別おいしくいただけた。その土地でこれはいけると思ってお土産に持ち帰って飲むとどうも味が違うと感じることがよくあった。そこにはその土地の気候風土の中で飲む美味しさがあったからである。そうしたことから勤務地にいるときはその勤務地のお酒を嗜むように心掛けた。 

 人間とは面白いもので、勤務地のお酒事情・文化に合わせて順応できるものだ。沖縄に行ったときは泡盛を飲むといった具合で、その土地土地のお酒文化を楽しむことができた。出来るだけその場で大いに飲み、土産で持ち帰らないようにしたものだ。転勤に付随した自衛官人生の楽しさでもあった。

.お酒の流儀や食生活 

 その後、各地の転勤、出張に際して、「骨酒の回し飲み」「お通り」など地方におけるお酒文化の違いを、転勤や出張の度に色々と体験することになった。お酒文化は料理を含めてその土地の昔からの産物・素材が使われ郷土食豊かで楽しくおいしく味わうことができた。

 今日、お酒はもとより飲み物、食べ物が全国どこでも手に入る便利さが増した分、食生活そのものが一律になり、どちらかといえば毎日の普段の食生活が、昔風にいえば、「ごちそう」で感激が少なくなったような気がする。ましてや、栄養過多で、ダイエットしなければならない時代になった。飲み物、お酒、食文化は時代とともに大きく変わりつつある。良き時代に勤務したことに感謝している。