昭和の航空自衛隊の思い出(147) 幹部学校指揮幕僚課程入校前後

1.あわただしく市川市二俣官舎への転居

     昭和47年7月幹部学校(第21期指揮幕僚課程)への入校は、入間基地から浜松基地へと転勤して僅か4か月にして東京は市ケ谷基地への再転勤を伴った。今後、1年間の学生生活であり、じっくりと勉学に専念するには家庭生活の安定が必須であった。

 浜松は三方原官舎に入居し、生活に落ち着きをとりもどしたと思ったら再度の転居となった。嬉しい悲鳴で、幸い妻は浜松に生まれ育ったことから、転居に当たっては兄姉たち親類が全員引っ越しの作業員役を買って出て、千葉県市川市の二俣官舎へ自動車で移動し手伝ってくれた。今もって当時のことを忘れず感謝している。

 この官舎地区は、当時、確か約1300戸で陸海空の部隊・機関に勤務する隊員が入居しており、巨大なマンモス官舎団地であった。5階建ての官舎が何十棟と立ち並び壮観であった。官舎団地内に二俣小学校があった。CS学生は地方の部隊から来たものは大体同じ官舎棟に入居することとなった。

    ちなみに、ネットで防衛省二俣宿舎の状況を調べてみたら、遥か約35~45年以上前のことがよみがえった。この官舎地区は、昭和44年に約9.3haの敷地に計30棟、約1,300戸の規模で建設された一団の宿舎であり、防衛省が26棟、厚生労働省が2棟、内閣府が2棟を所管していたと記録されている。本宿舎の廃止・撤去などがどのようになったのは本題ではないので省略する。

 後年、航空幕僚監部人事課勤務に際して、再びこの二俣官舎に入居することとなった。因縁のある千葉県市川市の二俣官舎であった。

 当時は、現在のように引っ越し業者がいたりつくせりの 時代でなかった。ここには誰も知り合いがいなくて苦労もあったが、学生生活を始めるにあたっての生活基盤を固めた。7月25日の入校式には準備完了し、晴れやかに市ケ谷基地の門をくぐった。官舎には狭いながらも三畳ほどの私の勉強部屋を設けた。自衛官生活最初にして最後のささやかな贅沢であった。 

2.入校に当たっての新たなる決意

❶ 入校学生40名の同期生の内、最年長グル-プに属し、かつ、部内幹候出身であることから自分の実力・身の丈は十分わかっていたので背伸びをすることなく、普段通り落ち着いて勉学に励むことにした。

❷ 縁あっての同期生であり、出身期別など関係なく交流を深め優れた点を積極的に吸収していこう。私にとってCS同期は競争相手ではなく、今後の自衛隊勤務におけるの真の理解者、協力者であり、支援者となってくれる人材であると考えた。

❸ 今までの自衛隊勤務は現場の実務中心であっただけに、この一年間は何でも積極的に吸収し、柔軟に広い視野で物事を考え、体系的、理論的な構成に重点をおくことにした。軍事のプロとして、指揮官及び幕僚としてより高い識能を取得することに努めよう。

❹ 操縦学生・部内幹候出身者として、空曹・空士の地位の向上等航空自衛隊に役立つ仕事をやるために選ばれた修学であると自覚した。それは部内幹候出身者である自分に最も適した課題・役割をやり遂げるための基盤づくりであり、実力をつけるための場であると考えた。

❺ 気負うことはないが、部内幹候出身者として後輩の指標となる。ある面では部内出身幹部の代表として期待もされ注目される。自分の持ち味を出すことより、この一年間は勉学を通して自分の弱点、足らざるところを補完するように努めることに重点をおくことにした。

 3. CS2次の受験と入校にお世話になった

 CS受験に関して、終生忘れられないお世話になった方は、山岡靖義さん(部外28期・CS20期・将補)と久次米徹志さん(部外16期・CS18期・将補)であった。

 山岡さんは、峯岡山で要撃管制官として一緒に防空の最前線で航空警戒管制任務についた仲間であった。要撃管制の分野で頭角を現し、実務のエキスパ-トで旺盛な研究心と理路整然とした理論派であった。いちはやくCSに進み、私の受験に当たり、懇切なアドバイスをいただいた。どれほど力強く思ったか、感謝しても感謝しきれないくらいであった。

 久次米さんは、人事幹部の先輩として、入校後の生活、勉学の方向性などについて資料を含めて懇切な指導をいただいた。CSの課程について、多くの俊英に交じって果たしてついていけるかどうか一抹の不安があったがそれを払拭することができた。

 両氏とも私の敬愛する終生忘れることのない方である。このように私の周りには、次第に多くの先輩・上司・同僚・部下がそれとなく支えてくれる人たちが形成されていった。ありがたい限りで感謝の一語に尽きる。課程修了後、どのようにその期待に応えるべきか、 部内幹候出身の一人として将来方向を定めるよすがとなった。