昭和の航空自衛隊の思い出(146) 教導高射隊勤務とCS2次受験・合格

1.昭和47年当時の教導高射隊の主要幹部

    昭和47年3月浜松基地所在の教導高射隊に勤務した。部隊創立3年目であり、部隊の充実発展に隊長以下幹部・空曹団が士気高く邁進していた。

 要撃管制官として峯岡山で高射部隊の指揮所運用隊と一緒に同じオペレ-ションで仕事をしてきたこともあり、高射部隊の雰囲気はある程度承知していた。

 昭和47年3月現在の主要幹部は、第2代教導高射隊長2佐北村宏、先任幹部3佐末次信正、総務班長1尉濵田喜己、企画班長1尉藤岡正行、企画幹部1尉狩山和雄、評価業務班長3佐末次信正(兼務)、装備班長3佐平野晃爾、安全班長1尉藤岡正行(兼)、教導隊長3佐細田恭徳、射統小隊長3尉東秀行、発射小隊長2尉小松元彦、整備隊長1尉藤田統幸、整備管理班長2尉樋口整治であった。

 部隊の任務からして、ナイキ運用と整備幹部が主力であったことから総務人事幹部はどちらかというと異色の存在であった。優秀なナイキ運用等幹部が揃っており全般的に向学心に燃えて、CS を目指す雰囲気が強かったように感じた。したがって、部内幹候出身で1次合格ということから私に対する関心も強く、担当職務を遂行する上では非常に多くの幹部・空曹の協力が得られたので仕事はやり易かったように記憶している。 

2.短がかったが一緒に仕事をした仲間

 教導高射隊本部総務班長としては、指揮幕僚課程学生の選抜試験に合格し、課程入校のため幹部学校付となったことから47年3月から同年7月までの4か月の短期間勤務となってしまい残念であった。 部隊に対して申し訳ないという気持ちであった。

   総務班長の職務は総務人事の担当であった。航空警戒管制部隊の警戒群本部運用班長、団司令部副官、整備補給群本部総務人事班長及び基地業務群本部人事班長を経験してきたので、職務遂行面では特に困ることもなく、新しい課題に積極的に取り組む体制を整えていった。

 主要な班員は、総務係・先任空曹の梨子田弘1曹と人事係花水浩2曹であった。梨子田弘1曹は明るい社交性に富んだ世話好きな総務分野に長けた経験豊富な先任であり、私の片腕となって積極的に補佐をしてくれた。

 花水浩2曹は、社交性に富み若手の有能な人事空曹であり、人事デ-タの整理、ち密な計画づくりに長けていた。地方連絡部の広報官としても大活躍し功績を挙げた。後年幹部となって人事分野に貢献した。

 両名と私との勤務期間は短かったが、その後、どこの部隊に転じても固い絆で結ばれていた。当時至らぬ班長を支えてくれた、一緒に苦労を共にした仲間であり、終生忘れ難いものがある。相互の信頼関係は一緒に仕事をした期間に関係がなかった。 

3.服務指導要領の作成と実行

 教導高射隊総務班長として着任して以来、部隊の状況と隊員の服務状況の実態を把握してから、教導高射隊の特性に対応した「資質能力の優れた集団である」との基本的な考えに立つ「服務指導計画」を描いていた。

 それは、すでに入間基地において整備補給群及び基地業務群で試行し、問題点等や改善の方向も具体的に検討して詰めに詰めた概案を考えていたので、それを集大成して一つのものにしたいとの構想を抱いていたからである。

 当時、北村隊長に計画案をお話したら大変驚かれたように記憶している。それは従来の一般的なものとは異なり、随分斬新的なものであっただけにやむを得ないことであった。当時私のことを十分知っていただいていなかった段階であったから当然のことであった。

 この計画はCS入校となって陽の目を見ることができなかったが、CS課程を卒業し、数年後、第6航空団に勤務した折、団司令の決裁をいただいて、司令部人事班長・服務指導担当幹部として計画を実行することになった。

 教導高射隊において、幸い一つだけ実行したのは、任期制隊員の退職時の取扱いであった。優秀な空士隊員が家庭の事情等で任期満了退職するに際して、離隊にあたって、定年退職並みに処遇する策案であった。短い在任間であったが、朝礼での紹介・離隊見送りなど部隊で創意工夫してできる方策を実行することができた。

 その根底にあるものは、階級・職位・勤務年数にかかわらず「名誉除隊」「任期満了」する隊員の前途を祝し、社会人として大成してもらいたいとする全隊員の総意に他ならなかった。何十年もの歳月が経ったが彼らは必ずや離隊時の決意のように心豊かな人生を送ったであろうと信じている。

4.CS2次試験の受験

 CS2次試験は、昭和47年5月頃東京市ヶ谷基地に所在する幹部学校で宿泊して数日間、集団討論、個別面接試験及び身体検査の厳しい試験を受けた。受検要領は、事前に術科教育本部の集合教育で教育指導と経験していたので大いに役立った。

 集団討論及個人面接試験は、幹部自衛官に任命されて以来、日々精進してきた結果の総合であり、何ら臆することなく正々堂々と平常心で受験することにした。受検者80名のうち半分の40名が選抜されることになっており厳しい試験であった。

 試験の内容は省略するが、日ごろの指揮官・幕僚勤務、各種の付加職務、当直勤務などのほか生活態度、信念から各種の創造・改革・改善・研究につながるものすべてであり、あらゆる面にわたって数個の試験班から厳しい試験を受けた。

 私にとって一つだけ利点があったのは、受験資格ギリギリの最年長であるということは,、別の視点から見ると、階級の昇進速度は遅かったが、幹部自衛官としての在任期間が最も長く、現場の実務をやってきたことから様々な経験を積んできたともいえる。従って、隊務の遂行については自信を持っていいのだと自分に言い聞かせた。 

 合格の成否よりも、部内幹候出身幹部としてこうした受験の機会を与えられたことを誇りにし感謝した。 

5.CS選抜試験の合格と幹部学校への入校

 その後、第21期指揮幕僚課程学生の合格者の発表が行われ、昭和47年7月10日付で幹部学校付、同年7月25日から48年7月14日まで幹部学校入校(指揮幕僚課程)を航空幕僚長から命じられた。

 ちなみに、21期CSは、1次受験者数659名,1次合格者数80名、入校者40名で競争倍率は16.90であった。

 学生の宿舎は、幸い千葉県市川市の二俣官舎に入居できるようになり、家族を帯同して移動した。長子にとっては小学校に転校し少し落ち着いたかと思ったらすぐの転校となった。自衛官の子供の宿命であった。大変であると思ったが、何よりも家族が一緒でいることを重視して引っ越しをすることに決した。家族全員にとっても新たなる世界が待っていた。