浜ちゃん日記  新茶の手もみと人生の味

 今朝はお墓参りをしてきた。毎月1日と15日は朝墓参りしてお花を替えている。境内に入った途端、お経の声が聞こえるので眺めたら、お隣さんは若いのに熱心に般若心経を唱えていた。さぞかし身内の方の供養であろう。それにしても大したものだ。 

 私など先祖を敬うが、そこまではいかないでいる。かって四国八十八か所を巡礼し般若心経をそらんじたが、凡人の悲しさいつの間にやら忘れかけていた。熱心にお経を上げる姿を見て反省することしきりである。

 菩提寺・洞雲寺の山門入口の掲示は、「もまれねばこの味はでぬ新茶かな」とある。手もみによって新茶の味が出る。新茶のてもみなどをテレビの紹介番組で観てもなるほどとよく分かる。

 昔から新茶の手モミの手法は代々受け継がれてきたものであろう。もみ方一つでお茶の味が異なってくるといわれている。若い時にはお茶の新芽をつむ作業を応援したこともあった。私の家の周りは茶畑が展開している。家のそばの茶畑にカメラを向けてみた。お茶屋さんでは新茶がでまわっている。新緑の季節だ。

 「もまれねばこの味はでぬ新茶かな」この一句は、それぞれの立場で解釈すればよいのではなかろうか。人生もまた同じだ。もまれたくなくてももまれるのが人生であろう。もみにもまれて酢いも甘いも経験して人生の終末を迎える。 

 すでに古茶となってしまった。新茶といわれた時代は遥か昔のことであるが、これまた人生であろう。 

 新茶は新茶の味が出る。また、古茶は古茶の味が出る。古茶でなければ出ない味もあるではなかろうか。

 

f:id:y_hamada:20150515072328j:plain

《 浜松市西区神ケ谷町洞雲寺の掲示板、「もまれねばこの味はでぬ新茶かな」 》

 

f:id:y_hamada:20150515084746j:plain

《 家の周りの茶畑、新芽は刈り取られ新茶として出回っている。刈り取った後から新しい葉っぱがいっぱいででいた。》