昭和の航空自衛隊の思い出(136) 航空基地の裏方を支える基地業務群

1.マンモスの入間基地を支える基地業務群で勤務

 昭和45年5月中部航空警戒管制団隷下の基地業務群人事班長(1尉、間もなく35歳となる。)として着任した。前任の整備補給群は1年半の勤務であったが、整備補給関係の機能の隅々まで知ることができた。今度は同じく入間基地に所在する基地業務群に勤務することになった。官舎は狭山市の上窪官舎で移動もなく家族にとっても安定した生活ができたようだ。

 入間基地は、当時から航空自衛隊随一の航空基地であり、基地業務群は基地における管理業務等を行う部隊である。一口にいうならば、基地全般の裏方を支える「縁の下の力持ち」の大部隊であった。

 基地業務群は、群本部、施設隊、通信隊、管理隊、業務隊、会計隊及び衛生隊から成っていた。隊員数、職種数も多く、各隊の建物も広い基地の端からは端まで分散していた。

 文字通り基地業務群は、施設の管理や警備、通信輸送業務、給食や福利厚生、会計、医療等、基地の運営に関わる様々な活動を行っており、部署によっては交代制の勤務体制のもとに24時間昼夜の別なく隊員が勤務しているところである。

    基地業務群の各隊の状況の把握については、部隊及び隊員数が多いことから部隊活動は総括的に確認し、人事管理面の専門的事項に目を向けるようにした。また、内務班長及び内務班の運営、服務全般については掘り下げて対処するようになった。

 私にとっては、航空警戒管制団については、団司令部、警戒群、整備補給群に次いで、基地業務群と大方を勤務することになった。後年、団司令部人事部長に補職された折、隷下部隊勤務の経験が活きてきた。

2.同じ上司に二度仕える

 基地業務群司令は上原惠次1佐であった。上原司令とは峯岡山分屯基地における第44警戒群において群司令と群本部運用班長との関係で約2年間お仕えしたので、私の性格・能力等すべて承知しておられたので、着任早々から幕僚勤務は思い切って行うことができた。

 35年余の自衛隊勤務で直属の上司が同じだったのはこの時だけであった。極めて恵まれた勤務環境にあったといえる。運用班長のときもそうであったが、幕僚作業においては従前のしきたりを踏襲することなく、自分なりに最善策と考えた策案を提案することが多かった。

 ある面では斬新・革新的な内容もあったので、初めての上司の場合これで大丈夫かと多分思われたと思うが、熟慮の上策案を積極的に報告・承認を受けて実行した。その点、上原司令は私の特性を承知されていたため司令の意図、方針をしっかりと策案の中に入れた内容にしたので多くの場合、快く承認していただくことができた。

 人事管理、服務指導、各隊先任の活用、内務班運営等々の諸施策は、整備補群で試行し、問題点を検討してさらに改善を加えた策案を、基地業務群のいろいろな場面で試みることにした。その基本は私が勤務する部隊の特性に合わせて策案を肉付けをして内容の充実を図っていった。

 このように、諸施策については、受け入れ可能性、実行性、問題点への対処策などを検討しながら進めたので手ごたえを感じながらの勤務であったためか、勤務と生活が充実したものとなっていった。次第に部隊及び職務の経験を重ねるたびに自信もついてきた。自ずと強い信念と考えを持つようになったのである。

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《 中警団基地業務群全幹部 》

 

 

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《 基地業務群本部の陣容、群本部は、企画班、総務班及び人事班からなっていた。前列左から一人置いて、人事班長濵田1尉・企画班長群司令上原1佐・先任幹部、後列左から人事係小玉勝人准尉・総務班長吉武事務官・訓練係山本秀雄1曹 》