昭和の航空自衛隊の思い出(134) 心のゆとりが少しづつできた時代

1.自衛隊生活15年前後の時代

 ❶ 幹部自衛官として自信をもって勤務

 昭和30年6月に第1期操縦学生として入隊し、部内幹候出身者として、昭和36年2月3等空尉に任命され、39年1月2等空尉、44年7月1等空尉に昇任した。自衛隊勤務約14年、幹部自衛官歴8年5月が経っていた。

 第一線の部隊で要撃管制官として勤務した誇りと自信、わずかとはいえ運用と後方の双方を経験したこと、多くが現場勤務であったこと、内務班長など営内生活の中核にいたことなどから隊員の心情の理解・掌握・指導には自分なりのやり方を持つことができた。

 何といっても部内幹候という立場は、階級・年齢・経験・職務地位・識見能力など個々に色々な特性を有しており、マイナスよりプラス面・特色・持ち味を前面に出し、積極的、前向きにすべてを処することとした。

 出身期別に関わらず、真に自分に実務能力、隊員指導力、指揮統率力があればその職務を自信を持って効果的に遂行できるものだ。昇任はゆっくり型であったせいか、名実ともに誇りと自信を持って勤務できたように感じている。

 長い人生においては栄光盛衰は常である。部内幹候出身者は「野に育った強さ」があり、踏まれてもたたかれても「力強く生きる生命力」が特色であろう。俗にいう雑草と同じ特性を有していた。この当時の階級と年齢は自分の持ち味が少しづつ出せるようになった時期ではなかったかと思う。

❷ 誰しもが持つ昇任の喜びとお茶をひく心情

 自衛隊には階級がある。警察・消防から一般公務員・諸官庁、一般の企業といえども役職・等級など名称・呼び方は異なっても本質は同じである。階級に応じて職務の権限と責任が付与される。

    年度の各階級の昇任枠は自衛官の定数、予算定員と年度予算、定年退職等の減耗などいろいろな要素から昇任計画が決まってくる。また、実際の昇任選考は、昇任に関する関係規則等に基づき実施される。

 法令的なことや選考要領は別において、理屈抜きで、一つでも階級が上がれば誰でも嬉しいものだ。歳も若いから下の階級であればあるほど昇任した時の喜びは大きいものだ。横並びで一緒に昇任する「一斉昇任」の時は、やや当たり前の感があるが、選抜された昇任となるとその感激は大きいものだ。

 幹部、准尉・空曹空士、事務官・技官等に関わらず、昇任する喜びは皆同じである。下の階級であるほどその喜びは大きいということを忘れてはならない。逆に昇任できずに「お茶をひく」ことも同じである。

 自衛隊在任間、当時、「お茶をひく」という言葉はよく使われていた。昇任に関しては、昇任できずに「お茶をひく」ことも出身期別に関係なく、その期待感・諦め・心の痛みは同じではなかろうか。人事幹部としては公正な取扱いが基本であり、人事業務の処理に当たっては慎重に進めることに努めた。

2.空曹・空士隊員の「名前を覚える・人を知る 」

    第一線部隊の人事幹部としては、部隊全員の名前と顔が一致するようになることが必須である。まず現場に出かけて仕事をしているところを視認すると覚え易かった。機会をとらえて意識して積極的に隊員と直接話す機会を持つようにした。一度覚えたら「〇〇〇曹」と声をかけることを励行した。

 司令のもとには全隊員の顔写真を貼った隊員名簿を作成したりしたが、人事担当としては即座に名前が出るようにすることが大事でそれなりの努力をした。 

3.心のゆとりが生まれ出した時代

❶ 官舎の転居と生活

    中部航空警戒管制団司令部副官時に入居した官舎は、入間市東町の「蔵新田官舎」の副司令官舎であった。副司令が基地近傍に自宅があるために昭和41年11月から一時的に入居したものであった。副官の任を解かれ部隊配置となったことから、昭和44年8月約3年間住ませてもらった官舎を退去することとなった。

 この「蔵新田官舎」は、電話が一本しかなくて非常呼集では、すぐに司令部へ急行し妻が各戸に伝達をしたものであった。周囲は佐官、1尉クラスが多かったが、かえって階級が下であったことから夫婦とも皆さんには可愛がってもらえたことが強く印象に残っている。

 次の官舎は、狭山市入間川の「上窪官舎」へ入居した。ここには昭和47年3月まで約2年半住んで、浜松へ転勤することになる。官舎生活は自衛官本人より夫人たちと子供たちの生活の場であった。妻にとっては「蔵新田官舎」、「上窪官舎」共に隣近所夫人たちとの付き合いが深まり、何十年たって年賀状や電話のやり取りが今日も続いている。  

 私は部隊勤務中心の生活であったが、妻にとっては官舎地区が生活の場であり、様々な交流を通じて人生を重ねていくことになった。

 ❷ 自家用車の保有と安全運転

  副官の任を解かれてから、早速、自動車教習所に通い普通運転免許を取得した。昭和44年8月であった。ほどなくしてスバルの軽自動車の新車を購入した。昭和30年代は、自家用車を持っている隊員はわずかであった。米国へ留学した少数の幹部が自家用車を持っているくらいであった。遅れて漸く仲間入りしたのだった。

 昭和40年代に入ったらモ-タリゼ-ションの時代の波は激しく押し寄せてきた。官舎地区も基地内も隊員の自家用車の駐車場の確保と管理、隊員の安全運転・指導が求められるようになってきた。

 隊員指導の面でも、隊員の交通事故に関わる事案が発生するようになり新しい課題が生まれてきた。

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《 初めて購入した新車の軽自動車 》 

4 第1期操縦学生同期生会の世話役

 昭和40年代は、昭和30年6月に入隊した第1期操縦学生が、各部隊で航空戦力の中核となって活躍していた。一方、日本航空全日空等の民間航空へ転じ建設発展に貢献していた。中途で操縦免となった者も新しい分野で活路を切り開き、各人がそれなりに仕事も安定し、自分の将来について見通せる年代にさしかかっていた。

 そのころ同期会の活動は、現役パイロット組、民間パイロット組、現役転身組と大きく分けて3つのグル-プで同期会的なものが持たれていたが、全国的な集会・同期生会の結成に至っていなかった。それは自分のことで精いっぱいで振り返る余裕もなかったといえるのではなかろうか。

 昭和45年から46年にかけて、入間基地在勤の同期が集まり、誰からともなく、第1回の第1期操縦学生同期生会を東京は市ヶ谷会館で開こうではないかとの機運が高まった。

 私が中警団整備補給群の総務人事班長の職にあり、仕事柄連絡調整に都合がよいとのことでまとめ役になってしまった。昭和46年6月、入隊から16年経ってようやく全国の同期生が参集することになった。 以来、毎年、同期生会は東京で開催され、昭和55年第1期操縦学生会として会則を設け正式に発足するに至った。 

 その根底にあるものは、若い時代に操縦学生基本課程で学び、同じ釜の飯を食い、ともに厳しい教育訓練に汗を流した同期の強い絆が同期生会の出発となった。

    会長は区隊ごと順番で就任し、毎年、東京で同期生会総会・懇親会を開催してきたが、その運営は東京周辺の常任幹事が担当してきた。現在会長は1区隊の小林誠君が上番し、60周年記念大会をもって全国的・組織的な活動は終結し、地区ごとの活動に移行しようとしている。私にとっても同期生会結成の始まりにタッチし、最後の締めの業務を浜松の実行委員会の一員として行うのは不思議な因縁といえるであろう。

 第1期操縦学生会は、先に逝ってしまった髙橋洋君と常任幹事山田繁君、馬場雍君の長年にわたる献身的な世話役がいて円滑に運営することができた。まさに名実ともに功労者である。