昭和の航空自衛隊の思い出(132) 総務人事班で苦楽を共にしたチ-ム

1.わが命題に取り組むことができた時代

 昭和43年12月入間基地に所在する中部航空警戒管制団の整備補給群本部総務人事班長に配置され、第一線部隊の総務人事班長として、大きな志を胸に秘めて勤務することになった。

 人事幹部として進むにあたっては、今後の航空自衛隊発展充実に対応して「総務人事業はどうあるべきか」、「空曹の役割と活躍の場はどうしたらよいか」、「離島等の勤務者の処遇と人事管理はどうしたらよいか」及び「青年隊員の服務指導はどうしたらよいか」の四つの課題を自分に課した。

 そこには秘めたる志といえども、昭和の30年代から40年代における航空自衛隊には、下っ端の一幹部といえどもこうした発想・考えを持つことを許容する土壌と雰囲気があった。そ;れは昭和29年7月に創設された航空自衛隊が創設期を経て建設途上にあり、固定観念にとらわれない「創造」「自由な発想」「改善向上」などが隊員個々に求められていた。

 精強な航空自衛隊を作り上げるにはどうしたらよいか、それぞれの階級・職位で努力することが強く求められていた時代であった。

2.一緒に総務人事業務で苦楽を共にしたチ-ム

 こうした志を持って着任した整備補給群本部の総務人事班は少人数であった。私にとっては内務班長と運用班長を除けば、総務人事の分野における初の班長職である。

 総務人事班の陣容は、班長のもとに先任空曹である総務係の小川宗吾1曹、人事係の宝珠山守2曹、訓練係の今西利馬1曹を中心とする若干の事務官と空士の小チ-ムであった。

 小川1曹は能弁でやり手型、宝珠山2曹は綿密な作業が得意型、今西1曹は黙々と謹厳実直の実行型であった。少数精鋭でお互いに良く酒席を共にし、酒杯を交わし合った分、意思疎通もツ-カ-となった。いつの時代も航空自衛隊は第一線部隊の現場に有能な熟練の空曹がいて円滑な部隊活動が行われていたが、私を取り巻き支えてくれた空曹は実にりっぱな人材であった。

 その後、どこに転勤しても在隊間はもとより、退官後も交流が続き厚誼をいただいた。若い時代に一緒に苦労を分かち合い、汗を流した思い出は終生忘れないものである。それはまさしく、苦楽を共にしたチ-ムだからであり、同志・仲間・戦友であったからだ。感謝、感謝、感謝の一語に尽きる。

3.初の人事業務を共にした宝珠山守君 

 宝珠山守君は、初めて人事幹部への道を進んだ時の最初の部下であり、仲間・同志であった。一緒に仕事をしたのは1年半であったが、いつの時代も「班長、班長」と電話をくれたり便りをくれた。几帳面で人事資料の作成内容は正確であり有能であった。公私にわたって何でも相談してくれて語り合う間柄であった。当時、営内独身であったので、私の家で酒を酌み交わしたものだ。

 その後、整備補給群に長くとどまっていたので部内幹候を目指すよう勧めたことがある。心機一転して部内幹候に進み、人事幹部課程を修了し各部隊の人事班長等を歴任、人事分野でその手腕を発揮した。本当にいつまでも私の脳裏に残っている人物である。

先年逝去された。御冥福をお祈りいたします。 

 

先任空曹・総務係小川宗吾1曹、人事係宝珠山守2曹、訓練係今西利馬1曹

f:id:y_hamada:20150420231418p:plain

《 明るい笑顔の 先任空曹・総務係小川宗吾1曹(左)とともに 》

 

f:id:y_hamada:20150418221559p:plain

 《 総務人事班長を積極的に補佐してくれた先任空曹である総務係の小川宗吾1曹と訓練係の今西利馬1曹、小川1曹は能弁でやり手型、今西1曹は黙々と謹厳実直の実行型で、なかなか良いコンビであった。 》

 

 f:id:y_hamada:20150420231252p:plain

《 綿密な作業が得意なぴか一の人事係宝珠山守2曹(左)とともに、宝珠山君は部内幹候に進み人事幹部として活躍した。 》

 

f:id:y_hamada:20150418222041p:plain

 《 左から人事係の宝珠山守2曹、西沢大先任と酒を酌み交わす。宝珠山君は定年後も九州から入間の整備補給群本部OB会に出席したと便りをくれたことがある。自衛隊勤務には、ともに苦労を分かち合った思い出やいつまでたっても人と人との出会いと切っても切れないつながりが人生にあるものだ。》