昭和の航空自衛隊の思い出(131) 総務人事班長として、胸に秘めたの四つの命題

1.胸に秘めた四つの命題

 昭和43年12月中部航空警戒管制団整備補給群の郡本部総務人事班長となった。

(  その後、 昭和44年7月1尉に昇任し、翌45年1月から4月まで幹部学校の幹部普通課程を履修した。約1年6月勤務した後、45年5月基地業務群本部人事班長へ配置されることになる。)

 幹部自衛官として約7年の要撃管制官、副官の勤務経験を経ての総務人事班長の配置であり、将来とも人事幹部として進むのであれば、自分なりに大きな目標を胸に秘めて取り組んでみようと思った。

 それは、今後の航空自衛隊の発展充実に対応して「総務人事業務はどうあるべきか」、「空曹の役割と活躍の場はどうしたらよいか」、「離島等の勤務者の処遇と人事管理はどうしたらよいか」及び「青年隊員の服務指導はどうしたらよいか」の四つの課題・自分に課した命題であった。

2.自分に課した命題の背景

❶ 命題を課したきっかけ

 初の総務人事班長・人事幹部を進むにあたって、自分に命題を課したそのきっかけは、整備学校総務課で勤務した折、先任空曹福田正雄1曹が大先任として各部課隊の先任を掌握下におき、総務課長、総務班長の絶大な信任を得て幹部並みの大活躍する姿に接して、是非そのような幕僚になりたいと人事幹部としての将来像を描くに至った。その具体策を命題として自分に課したのである。

 実はこれは建設途上の航空自衛隊の大きな課題でもあり、階級的にも職務と権限のない一幹部の志ではあったが、その時代の自分のおかれた立場で定年退官に至るまで継続してこの命題に取り組むことになった。結果的にはこの大きな課題に向かって挑戦することによって自衛官生活が充実したものとなった。

❷ 命題設定の背景 

 命題設定の理由は、空士・空曹の経験をしたことで、若い隊員の心情を自分で体験したこと、内務班長を経験したことから時代の推移、意識・価値観、環境の変化等の中で内務班の運営・在り方、服務指導に関心を持ったこと、服務指導担当幹部として今後青年隊員の服務指導についてどう臨むべきか研究する必要があると考えたことにあった。

 陸自の経験、整備学校総務課や航空警戒管制部隊の最前線における勤務経験から、これだけ素質能力と意欲の高い空曹をどのように部隊等の中で位置付けて活用を図るべきかは将来に向けて大きな課題であると考えたこと、特に先任空曹の役割・地位などの向上策が今後の課題であると認識したこと、要撃管制官勤務を通じて離島等の勤務者の処遇と人事管理の改善を図るべきと思ったことなどであった。

❸ 部内幹候出身の役割

 当時の部内幹候出身者の経歴管理は、一般的に階級昇進はゆっくり型で、現場の部隊勤務が中心であったこと。年齢を重ね実務能力で部隊活動の中核となり、隊員の育成に貢献することができること、部隊等の状況をスミから隅まで熟知していることなどの特性・長所を持ち期待されていた。

 その上、警戒群本部の運用班長を経験してきたことからすべて部隊運用を中心とした物の考え方で、作戦運用担当幕僚と一緒になって幕僚活動を行うべきだと強く思っていた。総務人事といった枠にとどまらないで、部内幹候出身者の特性を活かして現場の部隊で施策をまとめ実行していきたいと思うようになった。

 3.命題に取り組むための地固め

❶ まず業務処理の練達に精進した

 当時は、部内幹候出身者が方面レベルの幕僚配置に登用されることは珍しかった。後年、チャンスに恵まれてあらゆる場面で人事幕僚として策案を提起することになった。

 総務人事班長として、自らの命題はじっと胸に秘めて、まず業務処理の練達に専念した。司令の理解と信頼を得てから逐次、策案を実行することを試みることにした。

   総務業務については、整備学校総務課で一通り経験した事が活きてきた。当時の総務班長と先任空曹の先見の明と配慮に深く感謝した。その上副官を経験してきたので特に困ることもなく、自信を持って円滑に業務を進めることができた。

 人事業務については、知識はあるが実務を行った経験はなかった。過去の報告書類を丹念に確認して大方の流れなどを理解した上、団司令部人事部に頻繁に足を運び教えを乞うた。時の人事部長は小木曽功2佐、人事班長森住八郎3佐(部外11期)、次いで太田瀧次郎3佐(部外13期)、曹士担当井手尾久1尉にはことのほかり懇切に指導をいただいたことが終生忘れられない。団司令部副官を務めたという経験と実績・信用がこれほどまでに活きてくるのかと感謝しつつ、人事管理の基本を大切にしながら自分なりに人事業務の改善向上を心掛けた。 

 問題意識をもって策案を考え試行

 総務人事班長という職務の新参にしては、2尉の古参から1尉となり、かなり年季が入ったような態度で精力的に業務に取り組んでいたように憶えている。初級幹部ではやれなかったことが、階級的にも職務上からもやろうと思えばやれる立場になっていた。 

 従って、自らが決めた命題に立ち向かう闘志に燃えていたので、精神的にも余裕があった。当然、業務の取り組みの視点もどちらかというと、総務業務の進め方を前任者や先輩たちのやってきたものをそのまま実行するといった踏襲型ではなく、幹部任官以来、部隊運用の立場から総務人事業務の在り方を眺めてきてどうあべきか、ある程度の方向性をきめていたので、「もっと改善充実するところはないか」という姿勢で改善向上を目指した。この命題は定年退官するまで追い続けた。

 従って、総務・人事・訓練係空曹と周りの隊員は、従前とは少し業務処理などが異なり、毛色の変わった班長が来たと受け止めたのではないか思われる。その分相互に理解するよう努めた。

 

f:id:y_hamada:20150418214357p:plain

《 昭和45年4月頃の写真、右が整備補給群司令藤沢五六2佐、左は小原義明2尉、総務人事班長としては、初めての職務であったが割りあいのびのびと藤沢司令にお仕えしたように記憶している。常に信頼してくださった。総務人事幹部へ転進後の最初の指揮官であっただけに印象深い。以来、在隊間はもとより退官後に至るもご教導・ご厚誼をいただいた。とても温厚で部下思いの方であった。私は昭和45年5月基地業務群本部人事班長へと配置されることになる。》

 

f:id:y_hamada:20150418215503p:plain

《 昭和45年4月の頃の写真、昭和44年7月1尉に昇任した。34歳であった。翌45年1月から4月まで幹部学校の幹部普通課程を履修し、間もなく同年5月入間基地に所在する基地業務群本部人事班長へ配置されることになる。》