昭和の航空自衛隊の思い出(127)  人事部門への転進につながったもの

1.一枚の人事員課程修業証書のもたらしたもの
 ここに一枚の修業証書がある。昭和34年1月上旬~3月末まで第5期人事員課程を履修したものだ。入校中に2曹へ昇任し23歳であった。
 人事員課程への入校については経緯があった。それは昭和30年6月第1期操縦学生として入隊し、意気揚々と進むも、操縦課程で免となり挫折し、32年4月整備要員として整備学校(現在の第1術科学校)へ転任した。
 整備学校は、当時、2部制の授業をしなければ整備員の大量養成が間に合わないほどの状況であったことから、入校コ-ス待ちの要員があふれていた。
 どうした因縁か学校本部総務課でお手伝いを命じられ業務の補佐をしているうちに、いつの間にやら総務業務が面白くなり、本腰を入れて積極的に業務支援に打ち込んでいた。しばらくして上司から勧められて整備要員から外れて学校総務課勤務となってしまった。
 高校も普通科の進学コ-スで理科系より文化系の方が得意であったので、整備より要務的な仕事の方が向いていたのかもしれなかった。当時は自分の適性について考えていなかった。 
 歳も若く何でも吸収する意欲に燃えていた時代であり、一生懸命に諸業務に精進した。一息ついて周りを見渡すと、操縦免となった同期生はそれぞれの分野で術科教育を受けてまっしぐらにすすんでいた。
 総務課の業務は、自分の能力発揮・性格等に合っており、何の不満もなかったが、当時、総務教育のコ-スがないことから向上心旺盛だった私にはそれに類した教育を受けたいという強い願望があった。こうした状況から上司にお願いし「人事員課程」を履修させてもらったのである。
2 人事員課程に学んで運命の糸に導かれた
 この曹士課程は、私にとっては人事業務処理そのものより広く航空自衛隊全体に視野を広げるきっかけとなった。曹士の課程内容には人事管理に関連して法制度的なものもあり、総務課で文書係の補佐をして、「航空自衛隊法規類集」、「防衛六法」に関心をもつて親しみようになっていただけに、課程の履修は自分の内なる欲求をかなり満たしてくれたのだった。これを足掛かりとして、自学研鑽に努め、更に体系的・理論的な基礎を固めることに繋がっていった。
 第5期生は28名であった。学生長は警務隊本部の警務官で人事係小林1曹に次いで、次級者であることから補佐役の副学生長に命課された。学生の構成は正副学生長のほか若干の3曹と主力は空士であった。人事曹士課程で学んだ同期が全国各地の第一線部隊に配置となり、時代の経過とともに実力と階級が上がって人事空曹の重鎮として活躍することになっていった。
 一方、私はほどなく、昭和45年2月、部内幹候選抜試験に合格して幹部への道を進み、要撃管制官として最前線で空の守りに就いた。人事課程は卒業したが人事部門から全く遠ざかっていたが、副官勤務を解かれ、再び関心のあった人事の分野で活動することになったのである。
 この間、すでに人事曹士課程を修業してから約9年の歳月がたっていたが、運命の糸で引き込まれるように人事分野に進むことを自然に受け入れていた自分があった。
 自衛隊勤務ではどんな業務経験・課程履修といえども何の無駄もなく、単線ではなく、色々な特色のある複線を歩むことによって識見技能を磨き、経験を積むことができ、私の自衛隊勤務と自衛官生活に大きな幅を与えてくれることになった。
 この一枚の修業証書は、その後語りつくし難いほどの多くの経験を積むチャンス・きっかけを作ってくれたことから終生忘れられないものである。
 当時の上司と福田正雄大先任、周りから皆で支えてくれた諸兄に対して感謝の一語に尽きる。
 *人事員課程については、
2014-11-08  昭和航空自衛隊の思い出(48)視野を広くした人事員課程

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 《 空曹・空士課程の一枚の修業証書であるが、自衛官人生に大きな影響を与えた。上司との約束では人事課程を卒業しても、担当の総務を続けることで修学のチャンスをいただいた。人事業務の実務を中心とした課程内容であったが、そつなく理解習得したように覚えている。私にとっては人事管理に関する制度と法規面に関する基礎的事項の習得が最も大きな成果であった。》
 
2.第3術科学校人事幹部課程に学ぶ
 副官の任務が解けて、新たなる進路のスタ-トは、要撃撃管制官から転進し、第3術科学校に入校し、第32期人事幹部課程(昭和43年8月7日~同年11月29日)を学んだ。学校長は奇しくも私が整備学校総務課に配置になった時の石原格太郎将補(当時2佐)であった。学生は16名で幹部自衛官10名、幹部事務官6名であった。
 後年、私が各級司令部の人事幕僚の経験を積んで、自ら進んで総務人事・教育技術・要務などの教育担当科長として母校に赴任し、後輩の育成に当たるようになった。