昭和の航空自衛隊の思い出(126)  副官勤務を終えて司令部人事部に配置

1.  副官の任を解かれ団司令部人事部に配置

   昭和43年7月15日付で、中部航空警戒管制団司令部副官の任を解かれ、団司令部人事部に配置された。約2年余の副官勤務であったが、副官という立場から司令部活動及び幕僚勤務の在り方の一部を見聞・経験することができた。このことが後年、各級司令部の幕僚として勤務するようになって非常に役立ってくることをその時は知る由もなかった。
 副官の任が解かれるにあたり、次は要撃管制幹部から人事幹部へ転進することが決って、約半月人事部で入校前の諸準備をすることになった。
2.団司令部人事部で入校前の研修
 団司令部人事部へ配置されたが、人事業務は全く実務経験がなく、無任所で全般の活動状況を研修した。特別な計画があるわけではなく勝手に見て回っていた。何といっても第一線の司令部人事部の主役は曹士人事担当であり、係長の加藤鐐平1尉がどのように業務処理しているかを観察することにした。加藤大先輩は人事実務のベテランであり、点検確認・慎重さなどは見習う点が多かった。
 人事業務の実務経験はなかったが、空曹時代に時の上司に希望を述べて人事員課程を履修していたので人事幹部課程の入校決定と人事業務の研修は全く違和感がなく、不思議なぐらいすんなりと入っていけた。
.中警団司令部人事部の陣容
 ❶ 人材が揃った人事部門の空曹・空士 
 昭和43年5月頃の人事部は部長2佐生間光男、人事班長3佐堀江保夫、人事係長1尉加藤鐐平、班員に1曹小玉勝人・2曹吉田淳己・3曹檜森敏夫・士長美野政文・士長西山光泰、事務官小峰秀雄・鎌田英雄・書記高木玖美子と服務班は3尉角明見・2曹中村猛・2曹増田近文・3曹山田博の皆さんであった。《何しろ古いことなので多少名前に誤字があるかもしれない。)
 副官の2年余の勤務で団司令部全員の人物等をある程度承知しており、人事関係者についても大まかにどんな人かを知っていた。
 こうした状況の中でしばらく勉強する機会を与えられた。特に、人事空曹空士は後年、部隊等と人事部門の大先任となって活躍する優れた人材が揃っていた。
❷ 3候補者尉官出身の人材
 人事係長加藤鐐平1尉は人事の実務型の方で部内ににらみを利かしていた。人事幹部の角明見3尉は、人格識見に優れ人事の実務能力は抜群であった。3尉候補者出身であり、多くが1尉どまりであったが、その後3佐へ昇任し持てる能力を発揮して大活躍した。3尉候補者出身者の経歴管理において、すばらしい前例ができたと多くが拍手喝さいをしたものだった。同じく3尉候補者出身の調査隊長となった鈴木美三3佐も同様であった。(現在はどうであるのか承知していない。)こうした多くの人材と交流がもてたことは幸いであった。
❸ 人を知ることの大切さを知る
 人事幹部課程を卒業して、入間基地所在の隷下部隊の整備補給群の総務人事班長、次いで基地業務群人事班長になって第一線の人事担当者となった時に、副官の職務で培った多くの隊員との面識と交流の結果が活きてきた。
 何事も「相手を知ると同時に相手に自分を知ってもらうこと」が職務遂行の基盤となる。末端の現場の部隊の担当者として、報告・調整先の司令部及び関係部隊の関係者の人柄などを承知していたことは私の隠れた財産であった。
 副官という職務を通じて人を知る、知ってもらう機会が多くなったことが何よりも大きな成果であったように思う。ありがたいことであった。