昭和の航空自衛隊の思い出(125)  副官勤務の余話

1.司令を陰から支える副官室

 昭和41年5月、中部航空警戒管制団司令部副官の配置を命じられたとき決心したことがある。それは司令に誠心誠意お仕えしようと胸に秘めた。どのレベルの副官も思いは同じではないかと思った。幸い2年余の勤務の間初心を貫き通せた。

 司令が視察等で不在になることがある。随行しなくても副官室の業務に変わりない。司令室への幕僚の出入りがないだけで、諸調整・電話などが普段と変わりなく続いていくものだ。むしろ不在間の来訪者等その分が他日に集中してくるのでその調整などあらゆる面で多忙となってくる。

 副官室は司令及び副司令の双方を担当している。司令不在間は副司令室への幕僚の出入りが激しくなり、副官室の業務にはさほどの変化はないものだ。

 中部航空警戒管制団司令兼入間基地司令の職務はマンモス基地だけに激職で多種多様である。特に基地司令という立場は基地の代表者であり、基地外でのパ-ティ等の出席等対外的な業務が相当あるものだ。

 副官は随行して会場内に待機することもあるが、私の場合は副官室で待機することが多かった。当時は携帯電話なるものはなく、適宜、主催者の担当に電話を入れて確認したりしたものだ。司令が無事に帰宅、ドライバ-の帰隊を確認して家路に就いた。

 この時間は、副官室で待機していたが、私にとつて幹部自衛官としての自学研鑽の機会であった。むしろ自分なりに有効活用をしたので貴重なありがたい時間であったように覚えている。当時、家族は、妻と子供2人であった。 

2.真面目な専属ドライバ-の活躍

    当時、中部航空方面隊司令官、幕僚長及び中部航空警戒管制団司令兼入間基地司令の専属ドライバ-ば、隷下部隊の基地業務群管理隊から差し出していた。極めて優秀なドライバ-で信頼が置ける人物であった。ここにも職務に徹した優秀な空曹・空士がいた。

 山口司令の時のドライバ-は士長で無口ではあったがしっかりした青年隊員であった。白川司令のドライバ-は熟練の妻帯の2曹であった。当時は車社会の到来の前であり、私自身に自動車についての知識がなく運転ができなかった。

 副官を終えてから運転免許を取得し、自家用車を保有することになった。副官としては車についての知識経験があればもっとドライバ-に対するいろいろな支援ができたのではなかろうかと思うことがあった。

 ドライバ-の2曹は釣りキチで、色々と釣り談義から休日には一緒に釣りに行くようになった。副官の職を離れてから、さらにはその上の上に釣りキチがいて私の趣味が増えることになっていった。

 人生とは面白いものだ。副官の職を離れてから、人事幹部としての経験を積み、しばらくして、基地業務群本部人事班長として隊員の人事管理を担当することになった。隷下の管理隊は司令等のドライバ-が所属する部隊であり、不思議な因縁であった。何万という航空自衛隊も「広いようで狭いのが世の中」であった。

3.心身を整えた端正な制服と新調

 幹部に任官した時には、新品の制服を支給される。それ以降は、幹部自衛官は自前で制服は新調することになる。副官勤務の内示を受けて最初に行ったことは制服を新調することであった。副官の席に着いて改めてその決断が正しいことを知った。何といっても端正な制服が凛々しさを増すものだ。心身ともに緊張の中にも、心のゆとりができたものだった。

 一般社会でもそうであるが、その場に合った服装で、それなりにしていることが心身ともに安定したゆとりのある言語態度の基礎になるものである。経済的な負担もさることながら、このことをきっかけにして定年退官するまで、常に制服・私服の着用については留意をするようになった。