昭和の航空自衛隊の思い出(118) 副官としてお仕えした 白川元春司令

1.   私の自衛官人生航路に大きな影響を与えた副官配置

    人生における人の出会いとは不思議なものである。航空自衛隊に第1期操縦学生として入隊し、操縦幹部を目指すも夢かなわず、転じて部内幹部候補生選抜試験に挑戦・合格し、幹部自衛官としての道を歩むことになった。

 要撃管制官の最前線での勤務を経て、副官という職務に、幹部自衛官の道を歩み始めて5年目頃に就いたことが、部内幹候出身の私の自衛官人生航路に大きな影響を及ぼすことになった。その時はそれがどんなに自分の内面に影響を与え、どれほどの得難い経験であったかを知らなかった。

 この副官の配置は、自ら志願したわけでもなく、私が選んだわけでもない。人事上の経緯は知るよしもない。たまたまそのようになったとはいえ、将来は航空幕僚長と目された山口将補、さらには航空幕僚長・統合幕僚議長に栄進された白川将補と航空自衛隊の命運を握られるような優れた将官にお仕えすることができたことは、私の胸の中に大きな誇りとそれに恥じないものを求めるようになった。

 自衛隊においては、どんな補職・配置でも自らが選ぶことはできないが、与えられた職務で自分の能力を磨き・学び・発揮することができる。そうした点から見ると司令の評価如何にかかわらず、副官の職務は私にとって素晴らしいポストであった。

 後年、各級司令部の人事幕僚として勤務した折、副官の選考資料の作成に当たっては、いつも当時のことが頭をよぎり、はつらつと職務についている副官の横顔と様子をさりげなく観察しに副官室に出入りすることがあった。

 

2.   司令の交代・山口二三将補の離任と白川元春将補の着任

  中部航空管制団司令部副官としての勤務期間は、昭和41年5月から43年7月までの約2年余であった。この間、お三方の中部航空警戒管制団司令兼入間基地司令にお仕えした。最初に1年2か月お仕えした山口二三将補は平成42年7月17日付で空幕防衛部長へ栄転され、新たに西部航空方面隊司令部幕僚長白川元春将補が着任されお迎えした。

 白川司令には、昭和43年3月26日まで航空幕僚監部人事教育部長へ栄転されるまでの8か月お仕えすることになった。

 着任早々から「俺は雨男だから」と公言され、豪快にあけっびひろけの立ち振るまわれたのが印象的であった。

 

3.   新たなる気持ちで副官業務に取り組む

 私にとって、副官なるものは、初めての職務であり、山口二三団司令にお仕えした一年余は無我夢中であった。司令の交代を機に副官業務を振り返り、私なりに副官とは何たるかを掴めたように感じた。島田正春副司令、生間光男人事部長からも継続して新司令の副官として勤務するよう示されたので、心を新たにして取り組むことを決意した。

 副官付・秘書の溝畑小浪さんと一緒に勤務することとなり、お互いに呼吸もあった。専属のドライバ -も新し空曹が選定配置された。

 

4.   白川元春司令の略歴

 大正7年1月2日、男爵陸軍大臣・白川義則の三男、東京出身 東京府立6中を経て陸軍航空士官学校に入校された。

昭和14年4月、陸軍航空士官学校卒業(51期)、少尉・飛行第45戦隊付

昭和15年4月、陸軍中尉

昭和15年10月、航士生徒隊付

昭和17年1月、飛行第90戦隊中隊長

昭和17年3月、陸軍大尉

昭和17年12月陸軍大学校(58期)入校

昭和19年5月、陸軍大学校卒業

昭和19年6月、鉾田教導飛行師団司令部付

昭和19年、陸軍少佐

昭和19年10月,第2飛行師団参謀

昭和20年5月、南方軍参謀

昭和21年5月、復員

昭和29年9月、航空自衛隊入隊 3佐  

昭和33年3月、幹部学校教官

昭和34年11月、航空総隊司令部防衛部 

昭和35年8月、1等空佐

昭和37年7月、航空幕僚監部防衛班長

昭和38年3月、航空幕僚監部人事課長

昭和39年4月、航空幕僚監部防衛課長

昭和41年4月、西部航空方面隊司令部幕僚長

昭和41年7月、空将補 

昭和42年7月、中部航空管制団司令兼入間基地司令  

昭和43年3月、航空幕僚監部人事教育部長。

昭和45年12月16日、空将・西部航空方面隊司令

昭和46年7月1日、統合幕僚会議事務局長・統合幕僚学校

昭和46年8月10日、航空幕僚副長

昭和48年7月1日、第11代航空幕僚長

昭和49年7月1日、第8代統合幕僚会議議長

昭和51年3月16日、退官

平成20年8月18日、死去、90歳

 

5.   副官勤務を通じて新たなる発展の基盤づくり

 白川司令の経歴は、整理してみると、まさに輝くばかりのものがあり、昔風で言えば名門の出である。文字通りエリートコースを歩まれた。

   着任された中部航空警戒団司令兼入間基地司令白川元春将補に副官としてお仕えし、あらゆる面で貴重な経験を積むことになり、新しい世界が開けていった。

 それは、副官についた最初の1年間は無我夢中で一所懸命その任務を果たすことに集中したような気がする。次の白川司令をお迎えしての副官業務は多少心の余裕を持って勤務できたので、あらゆることを積極的に、前向きに学ぶことができたからであろう。

 上級部隊指揮官・将官の立ち振る舞い、言動、指揮統率の在り方、業務運営、幕僚の使い方、緊急事態の対処、基地対策のほか接遇など数えられないほどであった。

 副官の業務に慣れ、多少余裕ができたせいか、司令室への毎日の幕僚の出入りなどを通じて、次に自分が直面するであろう司令部活動や幕僚業務のあり方について関心を持つようになった。

 幕僚業務の進め方について、「こうした方がよいのではなかろうか」といったことを考えるようになった。当時はまだ、「幕僚勤務」教範が編纂されていなかったが、結果的にはどうあるべきかと自問自答しながら問題意識を持って臨むようになった。副官勤務を通して、幕僚業務を学び始めていたのである。

        

6.   元副官だといつの時代も気にかけていただいた。

 後年、航空幕僚長統合幕僚会議議長となられてからも、私が勤務していた基地・部隊視察の折は、分刻みのスケ-ジュルであっても、副官だった私を呼んでくださり、顔をお見せると「おお元気か」と微笑んでおられた。

 自衛隊における出会いは、上下の関係もさることながら不思議なご縁である。そのご縁を生かすかどうかはわが心、胸三寸にあった。 

 新聞で訃報を知り、白川閣下の告別式には上京し参列させていただき、霊前に近況と御礼を報告しお別れした。 ご冥福をお祈り申し上げます。合掌
  

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 中部航空警戒管制団司令兼入間基地司令白川元春空将補の着任式・昭和42年7月16日、よく「俺は雨男だ」といわれた。1918年(大正7年)1月2日~- 2008年(平成20年)8月18日)、陸軍航空士官学校卒業(51期)、 陸軍大学校(58期)、第11代航空幕僚長、第8代統合幕僚会議議長。 男爵陸軍大臣・白川義則の三男。》
 
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  《 団司令室にての写真、 中部航空警戒管制団司令兼入間基地司令の副官(2尉・32歳)として勤務した。副官飾緒着用、副官飾緒は渉外事務を行う時に着用するもので、航空自衛隊の場合団レベル以上の副官が対象で訓令等で規定されていた。》