昭和の航空自衛隊の思い出(117) 副官から見た山口二三将補のお人柄と学んだもの

 1.  衝立の向こうで想を練っておられた

 私は中部航空警戒管制団司令部副官・2尉として、 昭和41年5月から42年7月まで山口二三将補が中部航空警戒管制団司令兼入間基地司令の在任間お仕えした。

 副官の役割の中で、指揮官が執務しやすい環境を作り上げることは重要なことである。司令のご希望により机の前に簡易なカ-テン式のついたてを置いた。用事があるときはブザ-1回が副官の私、2回が副官付・秘書の溝畑小浪さんと決めてあった。

 来訪者がない時は、山口司令はいつも執務机の上に紙を置いて沈思黙考されて想を練っておられたのが強く印象に残っている。航空自衛隊の将来像などを描いておられたのでしょうか、その中身は知る由もありませんでした。

 決裁等は大抵、中央のソファに座られて幕僚の報告を聞かれた。少し時間のかかりそうな時は幕僚をソファに座らせてじっくり話を聞くことにしておられた。

2.   部隊視察の副官随行  

 司令の隷下部隊の初度視察には副官が随行することがあったが、旅費予算の関係で制約されており、峯岡山、佐渡のみであったように記憶している。

 当時、要撃管制官の端くれとしては、佐渡におけるレ-ダ-サイトの厳しい勤務環境は特別に印象に残った。要撃管制官の年次交差訓練で中警団隷下の冬季の大滝根、経ヶ岬や北部航空方面隊の大湊、当別を研修してきただけに離島の厳しさを再認識した。

 こうしたことの積み重ねから、後年、各級司令部人事幕僚として、離島勤務者の勤務環境、人事管理について特に関心を持って施策の立案にあたった。

 司令の部隊視察の随行では、現地部隊に到着すればすべて部隊計画によるが、部隊側の気がつかないところや逆に気を使いすぎているところを緩めていただくことに配慮した。上級の部隊指揮官に対して末端の部隊指揮官は過度の神経を使うこともあるので、その点は副官がパイプ役となってそっと陰から役立つことができたようにしたことを覚えている。

 旅費は封を切らず全部とさらにポケットから相当上乗せをされ、足らないときには言ってくれと副官の私に預けられた。清廉潔白なお方であられ、部下を信頼し任せられた。

3.   司令車における長距離移動中の会話

 司令車で峯岡サイトへ長距離を移動するときは、かなりの時間があるので、車中で南方総軍参謀時代のことなどお聞きしたことがある。総司令官寺内寿一元帥陸軍大将の副官も兼ねられたことなどもお聞きしたことがあるように記憶している。

 それにしても大東亜戦争中に陸軍大学校卒業の際、恩賜の軍刀を賜ったことなど一切話されることはなかった。いつ、どこからともなくそのことを知るようになった。

 当時、私に戦史に関する知識素養があれば大東亜戦争についていろいろお聞きすることができたのにと残念に思うことがあった。かの有名な陸軍作戦課長服部卓四郎名の「大東亜戦争全史」の編纂に関わられ、服部氏の主宰する史実研究所の事務局長役を務められたことも副官の職を離れてから知った。

 副官当時、南方総軍参謀部の作戦課長美山要蔵さんのお名前はしばしば伺い余ほど深い関係であろうと推察していたが、「追薫」で上下の関係であることを知り得心したことがあった。

 その後、遅まきながら次第に戦史に関心を持ち、戦史書物を購入し研究するようになった。こうしたきっかけから幹部普通課程で戦史を学び、指揮幕僚課程学生の時、防衛研究所戦史室の「公刊戦史」である「大東亜戦史叢書」約100全巻を通読することに繋がっていった。

 単なる戦争史にとどまらず、戦争とは何かを考えるよすがとなった。

 副官という立場は、幕僚と異なり、日常的に司令と接しているので毎日のスケジュ-ル等含めてその都度伺い事も多く、自然と話しやすい関係になる。副官勤務も慣れ、多少余裕もできことから、次の白川元春司令に対しては、いろいろと積極的にお尋ねしてお話を聞くことになった。

 4.     指揮官と副指揮官の関係

 副官として着任した当時の副司令は、上田隆一1等空佐であった。次の島田正春1等空佐と交代された。短い期間ではあったが、体格がよくスマ-トな方で副官の出だしをご指導いただいた。

 上田隆一副司令は「山口先輩を偲ぶ」で山口将補について、❶頭脳明晰抜群 ❷豊かな人間性、「優秀な方でありながら、いわゆる威張ったり、鼻にかけたりの素振り、微塵も感ぜられない方」 ❸責任感と部下への信頼感、「部下の責任は何時如何なる時でも自分が背負うとは、常に口にされたし、行動にも表れていたことが強く記憶に残っています。然も、部下には十二分の信頼感を持たれていることを印象付けられました。従って、「この人の為なら」と恐らく例外なく皆思っていたのではないかと思います。一方、部下には極めて寛容であったことも記憶にあります。」と挙げておられる。

 山口司令が心から副司令を信頼しおられ、上田、島田両副司令とも積極的に誠心をもって司令を立て補佐される状況を拝察し、指揮官と副指揮官の関係を学ぶことになった。後年、副指揮官となった時そのように努めた。

 副官の立場から見た「指揮官と副指揮官の関係」については、幕僚の立場で見る場合より、直接的であり、日常的であるだけに一番よく分かるものである。この点からも自衛官人生に有形無形に大きな感化を受けてきたように感じている。

 

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 《 山口二三将補は、 昭和41年2月16日中部航空警戒管制団司令兼入間基地司令として着任されて以来、1年5か月在任され、42年7月17日、航空幕僚監部防衛部長へ栄転された。 》

 

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 《 昭和42年3月峯岡山分屯基地及び飯岡試験場の視察の帰路、金谷フェリボ--トにて、団司令 山口二三将補と名倉司1佐 

 

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《 当時の中部航空警戒管制団司令兼入間基地司令室の一部 》