昭和の航空自衛隊の思い出(112) 山口二三司令と新任副官

 1.  初めにお仕えた司令・山口二三将補

❶  最初にお仕えしたした司令

 昭和41年5月から43年7月まで中部航空管制団司令部副官として中部航空警戒管制団司令兼入間基地司令に約2年間お仕えした。  最初の司令は山口二三将補で、昭和41年5月から42年7月までの1年2か月であった。

❷ 山口二三将補の略歴

 山口将補は、大正4年1月8日広島県に生まれ、昭和8年旧彰館中学を卒業し、陸軍士官学校予科入校、同10年卒業、歩兵第14連隊入隊、同10年9月陸軍士官学校本科入校、同12年陸士49期卒業、歩兵第14連隊中隊長を経て、昭和15年8月陸軍予科士官学校区隊長、16年3月陸軍大尉、同16年12月陸軍大学校入校、同18年11月陸軍大学校卒業・恩賜の銀時計

   昭和18年12月陸軍航空少佐、陸軍航空総監部附、同19年3月南方軍参謀、20年8月第2総軍参謀、同20年12月~28年10月予備役、第1復員省(のち復員庁、第1復員局、復員局、引揚援護庁)勤務

 昭和28年11月~29年10月史実研究所(東京)勤務

 昭和29年10月3等空佐、幹部学校所属、第2期特別幹部学生(入校)、同29年11月航空幕僚監部防衛課、同31年2月2等空佐、同33年7月~12月米国留学(指揮幕僚課程)

昭和34年2月1等空佐、中部航空方面隊司令部防衛部長、同35年7月航空幕僚監部臨時勤務、同35年8月航空幕僚監部防防衛課研究班長、同36年8月航空幕僚監部防衛課長、同38年3月航空幕僚監部防防衛部付

 昭和39年1月空将補、39年6月~40年8月米国・ドイツ出張(バッジ関連調査)、米国出張(バッジ調整会議)、米国出張(バッジ研修)

 昭和41年2月16日中部航空警戒管制団司令兼入間基地司令

 昭和42年7月17日航空幕僚監部防衛部長

❸ 山口将補のお人柄

 副官として初めて、人事部長と監理部長に連れられて、団司令に着任の申告をしたとき緊張したが、笑顔で迎えてくださりほっとしたことを覚えている。

 お人柄は、物静かで、だれかれともなく声をかけられた。真面目で誠実、謙虚にして、特に責任感の強いお方で、すべての隊員から 敬愛されていた将官であられた。

 副官の立場からも、当時の航空自衛隊の一大事業であったバッジ・システム建設に精魂を傾けられたことがひしひしと感じられた。連日の如く関係の指揮官及び幕僚の報告等の出入りがあった。

 司令車で長距離移動の折は、時折、生い立ちや旧軍時代の話を伺ったことがある。今にして思えばもっとお聞きしておけばよかったと思うことがあったが、私自身にそれだけの力量がなく残念なことをしたと思った。

 お酒は少量をたしなまれた。趣味として、当時はやった「パチンコ」と書かれたことがある。今日に至るも優れた名将官にお仕えしたことを誇りに思っている。

2.  初めての副官業務

 私が中部航空警警戒管制団司令部副官となったのは、昭和41年5月初めであり、山口将補の中警団司令兼入間基地司令の在任間のほぼ全部を副官として務めたことになる。

 当時、副官室は、 副官の私と副官付は事務官で美人のよく気の利く溝畑小浪さん(後に星野元宏夫人となる。)、管理隊随一の選抜されてきたドライバ-で構成されていた。

 何しろ、私は田舎から大都会に急に出てきたようなもので、隷下部隊長はじめ司令部幕僚の名前と顔を覚えることから始まった。監理部長以下のアドバイス・指導等を得て少しづつ業務に慣れていったのを憶えている。

 困った時の相談役は、島田正春副司令(1佐)と荒木監理部長(2佐)で、その都度積極的に伺って助言をいただいた。業務に慣れてくるうちに司令の意図しておられることが分かるようになってきた。

 来客のお茶接待は溝畑さんの担当で、もっぱら副官業務に専念することになった。

3.  挨拶状の大失敗

 ある挨拶状にかかわることで、司令直筆の原稿を依頼し印刷屋に出来上がったので、点検をしてからお見せしたところ一字誤字のあることを静かにさりげなく指摘され、穴があったら入りたいくらい恐縮したことがあった。本当に申し訳ない大失敗であった。

 大失敗に対して、雷を落とされることもなく、直ちに、修正したものを印刷してもらったが、その後、外に発出するものは、二度と繰り返してならないと、一字一句点検確認することを肝に命じたことがあった。 

4.  中空司令部副官室との連携

 当時、中部航空方面隊司令官は田中耕二空将、幕僚長鏑木健夫将補の名将で、副官は活発行動派の石津節正1尉(防大3期・将補)、副官付高野美代子さんで随分お世話になった。庁舎が向かい合わせで、司令がしばしば司令官のもとへ往来しておられ、相互に両副官室が連携し合った。 

5.  ポストに応じた副官業務

 副官業務については、当時、航空幕僚監部作成の「副官の執務の参考」的なものがあったので、当初、熟読してこれらを参考にした。教範的なものは、基本事項の参考にはなるが日常業務は指揮官の性格・行動等によって律せられる要素もあるので部隊・地域特性に合った形で進めた。

 2年間の副官勤務を終えるときには、総決算として、中警団司令部副官業務の内容・流れ・着意事項など勤務経験・教訓を織り込んで、手書きの「中警団司令部副官業務」の資料を作成して、副官の机の引き出しに入れて職を離れた。

 

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 《 昭和42年3月峯岡山分屯基地及び飯岡試験場の視察の帰路、金谷フェリボ--トにて、右から名倉司1佐・団司令 山口二三将補・副官の濵田喜己2尉 》

  

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 《 昭和18年11月 陸軍大学校卒業、恩賜の軍刀を手にされた大尉時代の山口将補,「追薫」から 》