昭和の航空自衛隊の思い出(111) 副官の立場から見た入間基地

1.  2年間の中部航空警戒管制団司令部副官 

  昭和41年5月から43年7月までの2年余入間基地に所在する中部航空警戒管制団司令部副官として勤務した。

     いきなり航空自衛隊随一のマンモス基地へ片田舎からでてきたので戸惑うこともあったが、中部航空警戒管制団司令兼入間基地司令の副官を2年勤務した。お仕えした中部航空警戒管制団司令兼入間基地司令は、山口二三将補(元空幕防衛部長)、次いで白川元春将補(元航空幕僚長統合幕僚会議議長)、最後は石井信太郎将補の着任後しばらく副官交代までの2月間であった。

 この2年間、副官の立場から基地の現状及び運営の一端を垣間見ることとなった。直接の担当ではないだけに第三者的な立場からあらゆるものを客観的に見ることができたように記憶していいる。

 特に、基地を取り巻く諸情勢と諸問題、中部航空方面隊司令官及び上級司令部との関係、基地司令と所在部隊及び部隊長の関係、基地業務運営と部隊支援など幅広い分野について、直接業務にタッチするわけではないが、毎日の副官業務の調整実施、関係指揮官・幕僚の司令に対する諸報告の出入り、文書報告決裁、多数の来訪・来客の調整・統制などを通じて概略を承知ことになった。

 特に単に上級指揮官の庶務的事項を行ったといった程度のことではなく、副官勤務を通して、短期間で広範囲かつ高度な知識を学び多くのことを経験させてもらった。これらは大きな無形の財産となり、その後の幹部自衛官としての活動にとって非常に役立ち極めて有益な配置であった。

 

2.   空の玄関口となった入間基地と基地司令の立場

 航空自衛隊における対外的な基地の代表者は基地司令である。どんなに基地司令より上位の指揮官が所在していようとも基地を代表する者は基地司令となる。基地司令は所在部隊等の基地業務を担当している部隊等の長が兼務している。

 言うなれば、基地運営の部隊長であり、最高の責任者である。対外的事項の発信・広報の元締めでもある。従って、指揮系統にない部隊等の出来事であっても基地所在部隊である限り対外的には矢面になり、表舞台に立つこともある。

 当然に団司令と基地司令の2つの職務と顔を持っており、司令部活動も隷下部隊に関することと基地所在部隊等の基地業支援の双方の役割を担っている。

 当時、入間基地の将官配置の主要な指揮官は、中部航空方面隊司令官・幕僚長、中部航空警戒管制団司令及び第3補給処長であった。定期的に将官会議が行われ、副官の立場から務めた。 

 入間基地は、首都東京の航空自衛隊の空の玄関口であり、部隊・人員・面積などからも最大級の航空基地である。すべてにわたって隊員の往来がものすごかった。特に、高級幹部など来訪が多かったことが強く印象に残っている。

 

3.  副官の立場から見た入間基地

❶ 歴史のある航空基地

 私は中部航空警戒管制団司令部副官勤務を通して、航空自衛隊入間基地の歴史に触れることが多かった。「航空士官学校跡の米軍司令部庁舎」・「修武台」、「ジョンソン基地住宅地区」があり、至る所で歴史を感じることがあった。

 米軍との関係は、すでに 第41航空師団司令部は横田へ移駐しており、時折、米軍住宅地区司令官の主催するパ-ティに団司令夫妻が招かれ出席される折は副官として随行し、米軍将校夫妻と歓談し、米空軍の様子を垣間見ることがあった。

 当時、米空軍はパ-ティの席であろうと、司令官車であろうと緊急電話(ホットライン)があり、空自もいつの日かとうらやましく思ったことがあった。 

    ちなみに、入間基地の歴史に触れることにしたい。手元に資料がないので、「wikipedia・入間基地」(出典)によると、つぎのとおりである。

 1938年(昭和13年)5月、 陸軍航空士官学校分校が、入間郡所沢町(現所沢市)の所沢飛行場から入間郡豊岡町(現入間市)に移転、航空神社(修武台航空神社)を遷座した。

 同年2月10日 - 陸軍航空士官学校分校は陸軍航空士官学校(航士)として帝国陸軍の航空部隊における現役兵科将校を養成(空軍士官学校相当)した。

1940年(昭和15年)1月7日 - 豊岡陸軍飛行場完成した。

1941年(昭和16年)3月 -行幸昭和天皇より、航士に対して「修武台」の名が与えられる。

1945年(昭和20年)9月 - 大東亜戦争隊敗戦により、アメリカ陸軍航空軍第5空軍が同地に進駐、航士・飛行場等を接収した。同年10月 - 航士閉校された。

1946年(昭和21年) - ジョンソン基地と命名、航空神社は所沢市北野の北野天神社境内へ移設(1965年11月廃社)。

1952年(昭和27年)3月1日 - アメリカ空軍第41航空師団司令部編成された。

1954年(昭和29年)7月 - 航空自衛隊発足した。

同年10月 - 東部訓練航空警戒隊編成 (中部航空警戒管制群の前身された)。

1958年(昭和33年) 8月 - 中部航空方面隊司令部・中部航空警戒管制群編成により、入間基地開設

1960年(昭和35年) -浜松南基地から航空救難隊本部が移動してくる。

1961年(昭和36年) - 日米共同使用協定が締結された。

1962年(昭和37年)6月28日 - 第41航空師団司令部、横田飛行場に移転した。

1962年(昭和37年) - 第7航空団、偵察航空隊が松島基地から移動。入間救難分遣隊が新設された。

1963年(昭和38年) - 飛行場地区の管理運用が米軍から航空自衛隊に変更

1964年(昭和39年) - 入間救難分遣隊が入間救難隊に改編される。

1967年(昭和42年) - 第7航空団、百里基地へ移動。

1968年(昭和43年) - 木更津から輸送航空団が移動。入間救難隊が救難任務を解かれ廃止された。

 こうしてみてくると、旧陸軍航空士官学校と飛行場、米空軍の進駐、航空自衛隊の展開と 歴史のある航空基地であることが分かる。 

《 陸軍航空士官学校として発足 、「入間基地ホ-ムぺ-ジ」(出典)》



《 昭和30年頃 、「入間基地ホ-ムぺ-ジ」(出典) 》
  

❷ 首都・中部地区の防空の要

  首都圏・中京・京阪神といった日本の中枢地域を含む最も広い防空空域を担当する中部航空方面隊司令部が所在し、防空の要である作戦指揮機能を持つ防空管制所(ADCC)があったことである。

 峯岡山の防空指令所(ADDC)の最前線で勤務した私にとっては、交差訓練で防空管制所(ADCC)を何回か訪れたこともあり、一層身近に感じた。

 当時、作戦指揮機能を有する防空管制所(ADCC)は、数個の防空指令所(ADDC)の上部組織であった。防空指令所(ADDC)等が、わが国周辺を飛行する航空機を警戒管制レーダーにより探知・識別し、領空侵犯のおそれのある航空機を発見した場合には、戦闘機を緊急発進(スクランブル)させ、その航空機に接近して状況を確認し、必要に応じてその行動を監視した。実際に領空侵犯が発生した場合には、退去の警告などを行うことを指揮する。( その後、防空体制の整備に伴い作戦指揮機能は更に集中・充実してきた。)

❸  空の玄関口と多数のVIP来訪 

 入間基地は豊かな自然に恵まれた狭山丘陵の北東、埼玉県狭山市入間市にまたがって位置している。基地のすぐそばを西武鉄道池袋線新宿線が走っており、都心とのアクセスは40分~50分ほどである。
 入間基地には中部航空方面隊司令部が所在し、部隊・隊員・面積などからも航空自衛隊最大級の基地である。入間基地を離発着する定期の輸送機等は多く、隊員の各基地への移動に輸送機搭乗 が行われていた。私も要撃管制官として交差訓練に行くとき峯岡山から入間基地に来て所定の基地へ定期輸送機便で移動したものだ。

 VIPの輸送機等の離発着に際しては、基地司令にも通知があり、副官として出迎え等をしばしば行った。多くは基地司令室に案内し懇談されることが多かった。

 首都圏・中京・京阪神といった日本の中枢地域を含む最も広い防空空域を担当する中部航空方面隊司令部が所在することから当然に基地司令への表敬訪問も多かった。

 昭和の40年代初頭は大東亜戦争史に登場する高名な元軍司令官・参謀と接遇を通じてお目にかかることが多く、後年、大東亜戦争史を学ぶとき、私には非常に大きな興味・関心を持って研鑽することができた。お目にかかった方が登場するだけに戦史の内容が生き生きとして当時の状況が目に浮かび理解が容易であったことを覚えている。 

❹ 全国的に有名な入間航空祭

 昭和37年(1962)から毎年11月初旬は航空自衛隊入間基地の「入間航空祭」が開催され、地の利もよくて全国的にも最大級の航空祭といわれた。それはそれは長蛇の列ができるぐらい大勢の人が集まる。多いときには二十数万人もの人が集まる航空祭といわれてきた。

 私の副官在任時も大変なイベントであったことを覚えている。準備状況の点検視察、当日のVIPの来客諸々であった。

 私の羽合中学野球部の名マジャ-だった秋田昭之助君も所沢に在住し航空祭を見に行ったと述懐していた。