昭和の航空自衛隊の思い出(109) 中部航空警戒管制団司令部副官の勤務

1.  警戒管制団司令部副官

 昭和41年5月、入間基地に所在する中部航空警戒管制団司令部副官を命じられた。 

   当時、航空自衛隊において、副官は、幕僚監部のほか航空総隊司令部・方面隊司令部・航空団司令部などの将補以上の部隊指揮官に、佐官~尉官の副官と副官付が配置されていた。副官は人事上は総務幹部の配置である。

   当時の階級は2尉・31歳で、山口二三将補(元空幕防衛部長)、白川元春将補(元航空幕僚長統合幕僚会議議長)の2代の団司令にお仕え、最後は石井信太郎将補の着任後しばらく次の副官と交代するまでお仕えした。従って、全期間を副官として仕えることができたのは山口二三将補と白川元春将補のお二方の団司令であった。

    キャリアからすれば、想定外で、いきなり、航空警戒管制団司令部勤務となり、しかも航空自衛隊随一のマンモス基地へ片田舎からでてきたようなもので戸惑うこともあったが、職務遂行面ではそれほどもたつくこともなく、気分的にも晴れ晴れとしたものであった。整備学校の総務課で空曹時代に学校長の副官室の庶務事項を応援補佐したこともあり、司令部的業務にはある程度慣れていたせいかもしれなかった。

 副官への配置については、どのような経緯があったのか知る由もないが、要撃管制職域から外れて人事総務職域に転換する前触れであったように感じている。従って、「副官」と聞いてびっくりはしたが、何の抵抗も違和感もなくすんなりと新職務に入っていけたように記憶している。

 昭和41年5月から43年7月までの約2年間、中部航空管制団司令部副官として中部航空管制団司令兼入間基地司令にお仕えすることになった。

 2.  幹部自衛官としての基礎を築いた時代

 35年余の自衛官生活を振り返ると、昭和35年12月幹部候補生学校を卒業し、要撃管制幹部課程を修了して、36年9月から初認幹部として最前線での警戒管制・要撃管制の部隊経験したこと、団司令部副官勤務を終えた43年7月までの7年間は、多様な経験を積んで幹部自衛官としての活動の基礎・基盤となるものを築いた時期であったといえるであろう。

 したがって、私にとっては、偶然とはいえ求めても得られなかった有益な経験を積む機会を与えられた。また、将来発展の礎を築くに適した配置であった。

❶ 防空の最前線勤務

 何故ならば、最前線の部隊で24時間要撃管制官として、厳しい防空任務・警戒監視の勤務・要撃管制戦技の向上・練成訓練と勤務環境などを通して、国家防衛の何たるかを体得し、確固とした使命観・任務観を確立するとともに幹部自衛官とは何かを学び、指揮統率・将来の修練目標などを見定めることができた。

 航空警戒管制団司令部副官勤務

 一方、副官勤務は、単に上級指揮官の庶務的事項を行ったといった程度のことではなく、この勤務から上級指揮官の人格識見・指揮統率・部隊運営・基地部隊の現状把握と理解・幕僚業務と実務処理、特に上級指揮官と主要幕僚の関係はいかにあるべきかを学ぶことが多く、短期間で広範囲かつ高度な知識と経験を得ることができた。私にとってはもったいないほどの配置であった。このことが私のその後の自衛官人生、特に上級司令部人事幕僚としての活動に大いに役立ってきた。

3.  入間基地への転勤の準備

 昭和41年4月末入間基地への転勤の内示をもらったので、家族4人で狭山市入間川の借家の下検分に、千葉鴨川から4歳と7カ月の子供を連れて都電に乗り、西武鉄道稲荷山公園を降りて、事前の情報を元に借家を探して確認した。大家さんに会い、敷金と一カ月の家賃を払い一軒家の入居を契約をしてきた。

 帰りに混雑の都電で夫婦とも子供の乗り降りに気をとられ、子供のおむつを入れたカバンを棚に忘れて、気がついた時は発車しており、おむつのことで大変な苦労をしたりして疲れ果てへとへとになって鴨川の官舎へ帰ったことが強く記憶に残っている。

 新住居は、入間基地近くの狭山市入間川を選定し、自転車で行けるようにした。一家の引っ越しも完了し勤務体制も確立することができた。近くには子どもの医院、狭山総合病院があり医療・環境面で特に心配することはなかった。

 何といっても服装は大事であると考えて、冬制服と夏制服を新調した。心身ともに新しい職務に備えて準備をした。 

4.  副司令官舎へ留守番役で入居

 副官勤務もなれて来たころ、副司令は自宅があることから官舎が空ということになり副官が留守番役で入居することになった。ようやく落ち着いた借家も約6ヶ月ほどで退去し、今度は入間市善蔵新田の副司令官舎に昭和41年11月から44年11月まで副官勤務終了後もそのまま入居することとなった。

 官舎群の中で一般の官舎よりも広く臨時的だとはいえもったいないほどであった。当時、官舎の中では副司令官舎だけしか電話機が1台しかなく、非常呼集はもとより呼びだしなど取次役を行った。電話で呼集発令を受けると、内容を確認し、私は直ちに自転車で登庁し団司令の到着を待つことになる。メモと伝達先を指示して、後は家内が一目散で各戸のドアをドンドンとたたき「非常呼集です」と伝達して回った。妻には大変な苦労を掛けたが若かった時代であったので当然のこととお互いが思っていた。

 昨年、金婚の50年を迎えて、当時どんな姿で各戸を回ったのかとお互いに苦笑し合ったことがあった。携帯電話もない、電話が1本しかない、今では想像もつかない時代であった。 

 副司令官舎には、少しばかりの庭があったので球根類を植えて四季折々の花を楽しむことにした。この習慣は各地を転勤しても多少でも土のある官舎に入居した時は同じことを繰り返し、そのまま置いていくことにした。これが今日の地域での花活動に繋がっているように思える。

 

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《 昭和41年5月、中部航空警戒管制団司令部副官を命じられ入間基地に着任した。埼玉県狭山市入間川の基地に近いところの一軒家を借りた。自宅に表札を掲げ、制服も新調した。副官になって間もないころの玄関前での写真 》

 

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 《 昭和40年初頭は入間基地全体の司令部庁舎自体が古い建物であった。副官の机は司令室入口の前にあり、副司令室ともつながっていた。団司令室への出入りは副官の前を通ることになる。来客は副官の前の椅子でしばし待ってもらうことになっていた。副官の後方に副官付、ドライバ-の机が置かれ、簡単な接待用具などの設備が設置されていた。》 

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 《 副官飾緒については着用等の訓令があった。副官飾緒を着用すると普段より一層身が引き締まった。夏制服も新調した。副官飾緒はあまり着用することもなく、もっといろいろな場面で着用する方がよかったと後で思った。 》