昭和の航空自衛隊の思い出(108)  任務遂行・生活基盤の再構築

1.突然の逆らえない運命に従う

 昭和36年9月、要撃管制幹部課程を卒業し、初の任地へ向けて妻を帯同して雄飛して千葉県の峯岡山レ-ダ-サトに着任した。日勤で連日練成訓練に励み、要撃管制官の運用資格も初級を取得し、24時間の防空の最前線で実任務に就いていた。

 妻は初産のため郷里浜松に里帰りし、37年3月国立病院で長子を無事出産するも産後の肥立ちが悪く、同病院で半月後に忽然と天国へ旅立ってまった。勤務中「スグカエレ」の至急電報を受け取り急遽、列車を乗り継いで浜松駅頭に立つまで、妻の急死など思ってもいなくて、その場ですでに死亡していることを知らされ、ただただ言葉もなくわが運命に従うのみであった。

 若かっただけになすすべもなかったが、亡き妻の両親に幼子を預け再び任務に復帰した。2年間は実任務に明け暮れて防空の最前線、しかも防空指令所(ADDC)で緊急発進(スクランブル)の発令、識別不明機(UN)に対する戦闘機の要撃などを数多く経験した。24時間の交代制勤務の傍ら戦技の向上に努め、ひたすら勤務に没頭した。一方、この間、多くの仲間に支えていただいた。勤務の合間を見て、浜松へ往復しわが子の笑い顔を見て元気をもらってきたりした。心が癒されたのであった。 

2.普通の生活を目指した新家庭の再編成

 昭和39年3月、縁あって亡妻の妹を娶ることとなった。長子も引き取り一緒に生活できるようになったのである。40年7月には第2子も誕生し、ようやく4人家族の普通の生活に戻ることができた。

 勤務も39年6月からオペレ-ション室から郡本部の運用班長へ配置換えとなり、41年5月まで運用幹部として幕僚勤務についた。その後、上級司令部の中部警戒管制団司令部副官を拝命することになる。

 峯岡山では待望の官舎にも入れるようになり、長狭、坂東の二か所の官舎を経験し自衛官らしい生活基盤が形成された。新設の坂東官舎が4戸建った時は4家族が親しい付き合いをして、新妻も皆さんからよくしていただいた。業務隊長の三代さん、通信幹部の秋岡さん、ナイキ運用幹部の山足さんの一家で、女房族はいつも買い物は付近の農家に出かけて一緒に野菜や卵など買っていたようだった。この時ようやく普通の生活に戻った感じがした。

3.  厳しい任務遂行に対する家族を取り巻く基盤づくり

 自衛官の生活・勤務で、何といっても生活基盤と環境整備の確立は必須である。厳しい任務に立ち向かうには家庭の形成・安定が大事である。自衛官を取り巻く周辺の支援体制・環境整備があって安心して厳しい任務に立ち向かうことができるが、自衛官自身はそれを求めたりすることはできず、その各人のおかれている状況如何に関わらず、毅然として任務を遂行している。この実態は、東日本大震災に際して、自宅の被災・家族の保護もできず、任務に当たった多くの自衛官がいたことでも知ることができる。

 近時、官舎の家賃値上げ問題があったが、自衛官の「指定場所に居住する義務」・緊急対処・任務遂行上の連帯感の醸成など官舎の必要理由の本質を忘れたただ単に「家賃」だけで物事を見る議論に愕然としたことがあった。

  特に、離島の勤務者に対する処遇はいつの時代も忘れてはならない課題である。後年、各級司令部の人事幕僚としてこうした諸問題に真剣に取り組むことになった。人は生きている。自衛官も鉄人ではなく生きているからである。

4.   部隊運用を主軸とたものの考え方

 青年幹部時代にわが国の防空の最前線で勤務したことがその後の自衛隊勤務の物事を考える基本となった。どんな職域・業務であっても部隊運用を主軸とした発想になった。与えられた使命・任務をいかに達成するか、その手段方法などは固定観念を持たず、自由な柔軟な発想で英知を絞り、現実的な最良の方策を策定していくようになった。

 任務遂行にあたって、部隊・隊員が一番動きやすい、成果を挙げられ国民の負託にこたえられるようにするにはどうしたらよいか。自分の身体で真正面から取り組んだ経験から生まれてきたものであった。昨今の軍事・防衛の議論を見てもまだまだ観念的なものや地に足が付いていない意見を耳にするたびに首をかしげるものがある。任務遂行にあたって、部隊・隊員に最も必要なものは何か、最も求めているものは何かの視点からの考えが希薄であることに起因している。