こころのふるさと(25) 羽合中学の卒業文集をめくって(2)

1.羽合中学卒業記念文集「おもいで 」

    昭和23年4月から26年3月まで、鳥取県の中部に位置する羽合町(現在、合併によって「湯梨浜町」となった。)の羽合中学校へ生まれ育った宇野から毎日4キロほど離れた中学に徒歩で通った。

 中学時代のもので残っているものは、記念写真と卒業時の文集ぐらいである。今の時代であれば、デジタルでいくらでも記録することができるが、昭和20年代は写真屋さんで撮ってもらう以外になかった。さすが写真屋さんだけあって、白黒ではあるが何十年たっても古びても残った。

 文集はさすがに古びてバラバラになりそうである。ざら紙は変色したが、中学生時代に残したもので、内容はともかくどんなことを考えていたのか読み直してみるとおもしろい。全員が卒業に当たって短い文章を綴っており、内容を見ながら卒業写真の顔を探して、読んでみると中学生時代がおぼろげながら思い出される。

 どこの学校でも毎年こうした文集や写真帖を作成しているであろうが、70年近くなると懐かしさを越えて、追悼記を読むような感じとなった。

 この文集が優れているのは全員のものが載っていることだ。当時の校長先生はじめ教職員の手間を厭わなかった素晴らしい企画であったように思う。いつの時代であってもこうしたものは諸先生のご尽力と指導で残っていくものであるようにで思われる。

 今読み返してみると、こんなことがあったのか、こんなことを考えていたのか、文章は固いがまともなことを言っているなぁと気恥しい思いである。人間って歳をとっても本筋になるものは変わらないものだと感じた。

 f:id:y_hamada:20140922174456j:plain

f:id:y_hamada:20150314094821p:plain

《  昭和26年3月羽合中学校卒業記念集、昭和20年代であるためしみがついたりしてきた。バラバラになりそうなくらいだが、内容は立派な文集である。  》 

 

2. 先生と生徒

 私にとって、小学校・中学校で教えを受けた先生はいつの時代、いくつになっても「恩師」である。学校の先生はかって「聖職者」といわれた。いつの時代も親は親であり、先生は先生である如く、本質は変わっていないにもかかわらず、おかしな時代になってきた。しかし、私にとって教わった先生は恩師であり心の中にある。とりわけ少年時代の先生は、いつの時代も励ましを受けた。

 羽合中学の卒業文集「思い出」には、当時の先生が全員登場されているが、担任先生に的を絞ることにした。

 鈴木治文先生(故人)と洞ケ瀬二一君、絹川初春先生(故人)と大口富美子さん、秋久憲忠先生と松村喜一郎君(故人)、小矢野正彦先生(故人)と浜崎延博君(故人)です。私にはなるほどと選ばれた理由や先生と筆者・生徒との結びつきがよく分かる。

 

3.   洞ケ瀬二一君の「鈴木治文先生の横顔」 

f:id:y_hamada:20150314093047p:plain

f:id:y_hamada:20150314093123p:plain

 《 洞ケ瀬二一君の「鈴木治文先生の横顔」 、鈴木先生は野球部の監督もされた。洞ケ瀬君は野球部で主将・投手で紅顔の美少年であった。私が捕手でコンビを組んだ。現在、中学同期会の幹事長役を務めている。真面目で何事もしっかりとやり遂げた性格は変わらないものだ。》

 

4.  鈴木治文先生の卒業生徒へ贈る言葉

f:id:y_hamada:20150314093215p:plain

f:id:y_hamada:20150314093302p:plain

《 鈴木治文先生の卒業生徒へ贈る言葉、今で言う熱いまなざしで見守る熱血先生であった。野球部の監督もされ、指導を受けたせいか一番身近に感じた先生であった。2年生の時の担任で、私はどちらかというと口数の少ない方であったが、当時よくはやった選挙によるホーム・ルーム委員長(学級委員長)に選ばれたりした。鈴木先生はすでに鬼籍に入られた。御冥福をお祈りいたします。》

 

f:id:y_hamada:20140228201408p:plain

《 昭和25年2月 羽合中学2年  右前鈴木治文先生・鳥羽佳美君 右後から洞ケ瀬二一君・濵田喜己 》