昭和の航空自衛隊の思い出(107 )  新任幹部として最前線部隊勤務の経験から得たもの

1.  最前線部隊における経験   

 昭和30年6月航空自衛隊第1期操縦学生として入隊し、基本課程・英語教育・地上準備・初級操縦課程と進むも飛行適性面から免となり、大空への夢が挫折し方向転換の岐路に立った。

 一般隊員となり、昭和32年4月整備要員として浜松基地の整備学校へ転任し入校待ちで業務支援しているうちに正式に総務課で勤務することとなった。先輩諸兄から幅広い徹底した急速の実務訓練を受けることになり実務処理能力を培った。

 空曹に昇任し、再度将来への大きな夢を抱くようになり、縁あって浜松生まれの女性と結婚し、部内幹部候補生選抜試験に挑戦し合格した。

 昭和35年2月、晴れて奈良基地の航空自衛隊幹部候補生学校に入校し10か月の教育訓練を経て同年12月卒業した。同年12月小牧基地の管制教育団の英語課程及び撃管制幹部課程に学び、36年9月課程を修了した。

 幹部術科課程卒業後の最初の任地は、千葉県の房総半島にある峯岡山分屯基地に所在する第44警戒群で防空の最前線で実任務に就くこととなった。ここでは5か年の間に防空指令所の(ADDC)おける要撃管制官の勤務と郡本部の運用幹部としての幕僚勤務を経験した。

 昭和41年5月中部航空管制団司令部副官を命ぜられて、入間基地へ転任することになった。 その時、それほど自覚していなかったが、実質的には、要撃管制官としての勤務はこれが最後となった。新しい分野へ転進する転任ともなったのである。

   こうしたことから、私の35年余の自衛官生活を振り返ってみると、新任幹部として、峯岡山レ-ダ-サイトにおける5か年の勤務と生活は私の自衛官人生航路・歩みにとってはどんな位置づけになるであろうか考えてみると、峯岡山勤務は実に私の自衛官としての人生観・任務観・家庭観に極めて大きな影響を与えたことに気付くのである。それは「自衛官人生航路の基盤を築いた時期」であったといえるのではなかろうか。

2. 警戒管制部隊の勤務経験

❶   最前線で勤務した誇りと自信

    自衛隊ではどの基地に勤務しようと、どんな職務につこうとも、防衛任務に就くことに変わりがない。峯岡山レ-ダ-サイトの勤務は、最前線において24時間態勢で警戒監視及び要撃管制にあたった。ここでは5か年の間に防空指令所の(ADDC)おける要撃管制官の勤務と郡本部の運用幹部としての幕僚勤務を経験した。

  期間的には短かったが、要撃管制官として高所のレ-ダ-基地で特殊な交代制勤務下で、日常的に国籍不明機(UN)への対処で緊張感と使命感が織りなす勤務を繰り返しているうちに自然に「われ防空の最前線で任務を遂行している」との誇りと自信がしっかりと胸に宿った。

 オペレ-ションにおける要撃管制官としての勤務は、頭で考える空理空論でなく、自らの体験によって「われ防空の最前線で任務を遂行している」との誇りと使命感が強固なものとなっていった。

 自衛官はすべからく、各種の厳しい困難な任務につけばつくほど、自分の使命と立ち位置を自覚するようになるものだ。こうした試練を経て私は最前線での勤務に誇りと自信がついてきた。 

❷  防空の中枢で勤務した経験と学び

 新人の練成訓練は、当時の体制は防空指令所(ADDC)に配置して初級資格を取得した後は、要撃監視所(ISS)、防空警戒所(SS)に配置されることが多かったが、そのまま継続して、防空指令所(ADDC)で実任務に就くことになった。

 先任指令官としてスクランブル(緊急発進)の発令、要撃管制官として国籍不明機(un)に対する要撃管制及び対領空侵犯措置などの経験を通じて、防空システム機能への識能を高めた。

 特に、時折、先任指令官として配置につくことにより、短時間での状況の判断・決心などを通じて修練と胆力・度胸などつき、加えて要撃管制官として練成に練成を重ねて要撃戦技を磨き、防空の中枢で勤務したことが幹部自衛官として部隊運用についての幅広い識見を身に付けることができた。 

❸  深耕した防衛観・使命観・任務観

 24時間の警戒監視及び要撃管制の実任務に就いて、すべてを身体で受け止めることになった。第一線部隊において防衛任務を全うすることはがどんなものかを身をもって経験することになった。勤務と訓練の繰り返しで技量の向上と自信がついてきた。

 厳しい毎日の勤務を通じて、幹部自衛官としての自分の役割・立ち位置がどのようなものであるのかを身体で感じるようになってきたのである。これは、与えられたものではなく、心のうちから湧き出る自分なりの防衛観・使命観・任務観を確立することになった。

 いっぺんの訓示や教育、文書による自衛官の心構えではなく、厳しい勤務を通して全身で受け止めた、裏打ちされたものであり、確固たるものとなっていった。私にとってはかけがえのない第一線部隊勤務であった。 

 ❹   生死に関する人生観と心の痛み

 人生とは何であるか、何が一番大切であるかをこの峯岡山勤務と生活の間に多くを感じるようになった。それは妻が産後の肥立ちが悪くて、突如として逝つてしまったことである。喜びも悲しみを味わった。

 若かったせいか、全く心の準備もなく青天の霹靂の如く人生の危機に直面した。人の生死・運命・心の痛みについても諸々のことを学ぶことになった。人の一生においては平穏な日々だけではなく、大嵐に出合うこともある。耐えられないほどの困難に直面することもある。これが人生である。

 人生には時が必要であることもある。時が経たないと癒すことができないこともある。80歳・傘寿を迎えても人生を一口で言い表せるものではない。ほんのわずかのことが分かっただけである。

 皆さんの助けで、再び立ち上がり、平安の日々を取り戻すことができた。感謝・感謝・感謝あるのみである。