昭和の航空自衛隊の思い出(105) 長子の誕生と妻の急死

1.順調な長子の誕生と大きな喜び

 私の35年余の自衛官人生において、昭和36年9月から41年5月までの峯岡山サイトにおける5年間の勤務と生活は、充実した勤務であった一方、着任して6か月後、長子誕生の喜びと突然の妻の死という人生最大の苦難に直面したことであった。:結婚生活3年にして妻が天国へ旅立ってしまった。私が26歳で妻が25歳であった。

 今でこそ語ることができるが、当時、私を知る多くの方は知っていてもそのことに触れないでそっとしてくれていたように感じている。長い間のその心づかいに感謝している。

 それは長子の誕生後まもなく妻が産後の肥立ちが悪く、突如として乳児を残して逝ってしまったことである。まさに青天の霹靂と言うか降ってわいた出来事で全く考えたこともなかった事態になった。わが人生において最も悲しい出来事で人の力ではどうにもならないことがあった。

 昭和34年に縁あって浜松生まれの妻と結婚した。運よく部内幹候選抜試験に合格、35年2月幹部候補生学校に入校し、同年12月無事に卒業、小牧基地の要撃管制幹部課程入校に際しては、妻と一緒に赴任し安定した家庭生活を送った。36年9月所定の課程を卒業し、千葉県の峯岡山サイトに赴任を命ぜられた。

 昭和36年9月、航空警戒管制の第一線部隊である第44警戒群に着任以来、引っ越しや住いも安定しごく普通の平穏な毎日を送っていた。妻にとっては初産であることから明けて37年2月、出産は浜松で行うことにし、家内の実家の両親のもとにお願いした。出産は国立病院に入院して行うことにした。わが子の誕生が待ち遠しく、無事に生まれることを祈っていた。

   一方、初任地での部隊勤務に慣れて、要撃管制官の練成訓練は順調に進み、初級の運用資格も取得し、一人でミッションをこなすことができるようになり自信もついた。

 勤務も日勤から3交代制の交代制勤務(シフト勤務)に組み入れられて、首都圏を中心とした広範囲の24時間の警戒監視と要撃管制の任務に就き、小隊の要撃管制官の一員として順調に業務をこなしていた。小隊には先輩の要撃管制官が数多くおり、同年3月中旬には、妻の出産予定日なのでその前に休暇をもらって浜松に出かけた。

 予定通りに第1子男子は無事に生まれ母子とも特に問題もないので喜びを胸に秘めながら帰隊し、再び任務に就いていた。これが妻との最後の別れになるとは夢想だにしなかった。当時は連絡の手段は手紙を書くしか方法はなく、手軽に電話はかけられず、携帯電話でやり取りの出来ない時代であった。

3.「危篤スク帰れ」と悲運の知らせ

 千葉県の鴨川に帰って10日すぎた昭和37年3月末、午後勤務中に、突然「〇〇危篤直ぐ帰れ」の至急電報を受領した。状況は不明であったが急いで帰宅し、列車に飛び乗り真夜中浜松駅に着いた。この間、私の頭の中には全く妻の死など考えたことなどなかった。

 駅頭で迎えの者から妻の急死を告げられ愕然とした。唯だ唯だうなずくばかりで声も出なかった。わが子を残して逝ってしまった妻の思いは計り知れないのがあったであろう。妻の残念と幼子の不憫にわが人生の中でこれほど涙したことはなかった。すべてを運命と受け入れざるを得なかった。昔からよく言われた産後の肥立ちが悪かったと信じざるを得なかった。

 全て葬儀は妻の両親と媒酌人の郷里の大先輩福田正雄先任が取り仕切ってくださった。突然のことで途方にくれたが、妻の両親からは幼子は育てるからとの強い後押しで、とりあえず部隊に帰えり、再び厳しい任務に就くことにした。

3   わが人生の一大試練

   妻の急死に人の命のはかなさ、運命といったものを痛切に感じたことはなかった。一段落して気を取り戻し、幼子の行く末を考えながら勤務の合間を利用して、しばしば千葉と浜松を往復し、顔を見て順調に成長していることに安堵した。

 当時の監視管制隊長勝屋太郎3佐からは特別な配慮をいただいた。また、励ましの手紙をいただいたりした。勝屋隊長は、後年、将官に昇進され航空幕僚副長に栄進された。

 厳しいシフト勤務についており、いずれにしても自分の手で育児をすることはできないため亡き妻の実家の両親に預け育児をお願いすることにした。2年間は、ただひたすら仕事一筋に専念した。

 2年後,、人生は不思議なもの、亡き妻の妹である末娘の現在の妻と縁あって私と結ばれることになった。わずかの年数にして、再び普通の自衛官生活を送ることになった。長子も引き取り、初めて官舎住まいをすることになった。こうしたことから周りの先輩の皆さんからはあらゆる面でお世話になったといえる。私たち夫婦にとっては、峯岡山勤務と官舎生活はこうしたことから特別に思い出のあるところとなった。速いもので今年は結婚50年・金婚を迎えることとなった。