昭和の航空自衛隊の思い出(102 ) 自信のある持ち歌を持て 

 1     初級幹部の前座役と修練

  昭和36年9月、千葉県の房総半島の南端にある最高峰愛宕山にある峯岡山レ-ダ-基地に要撃管制幹部として着任した。新人コントロラ-として一日も早く実任務に就けるように急速訓練が始まる一方、幹部会の一員としての歓迎会も行われた。

 ここでは、新入りの初級幹部には宴会の余興の部では前座役が待っており、とにかく何か芸を披露する羽目になった。みんなと一緒に飲んでおればよいというのではなく、どんな人物かのお披露目みたいなものである。とりあえず、当時はやっていた流行歌を唄ってしのぐことができたが、これではいけないと、自分で考えるきっかけになった。

 空士・空曹の時代は、数多くの宴会に参加したが、どちらかといえば列中の一人として、目立たないように楽しくおいしく飲んでいれば事足りたが、幹部の端くれとなるとそうはいなかない。仕事は真面目にやり、時には部下隊員に実力発揮の面で相応の切れ味を見せることは当然であるが、それでは足りないものがある。

 それは、「個性のあふれた人間味のある姿」であろう。職務上のことではではなく、自分そのものの一端を披歴できれはよい。宴会という場を通じて何か自分の特色・個性を出せるものはないかと考えた結果は、「郷土民謡」を唄うことであった。

 「郷土民謡」には自分の生まれ育った故郷のすべてがふくまれており、話題性があって、無理なくなじめるものであった。故郷の歌をその土地で育ったものが唄うほど心強いものはないからだ。

 郷里から資料をとりよせたり、レコ-ドなどで勉強したりして、鳥取県の民謡「貝殻節」「関の五本松」などを一生懸命練習した。要撃訓練と同じで、理屈なしに訓練・訓練・訓練以外に上達の道はない。一つのものを何十年も場数を踏んで唄っていると本当の「持ち歌」になるものである。しまいにはトレ-ドマ-クみたいになるものだ。昔から言う「十八番」というものであろうか。

 昔は「無芸大食」という言葉があった。これも一つの生き方ではあったが、人生いろいろあった方が楽しいものだ。それなりに当時、民謡や・演歌・流行歌・詩吟など練習したかいあってか、歌の才能はないが、努力した分だけは一定のレベルに達し自信を持って唄うことができるようになった。当時はマイクなしの地声で鍛えた。カラオケ時代に入り、柔らかい雰囲気の場では演歌や流行歌を取り入れて歌うことにした。

 峯岡山では、芸達者が多くいた。コントロラ-の高橋昭(外21)氏の見事な落語、都々逸などには参った。山岡靖義(外28)氏のギタ-など素晴らしいものであった。昔から武人はなにか一つ秀でるものを持てといわれてきたがまさにその通りであった。秀でるところまではいかなかったが、自信をもって得意なものとして堂々と唄うことができた。

2   一つの自信は次の自信につながる

 半世紀前と今の時代には変化があり、宴会そのものの内容・形式など大きく様変わりしてきたであろうが、要は自分の個性に合った得意なもの、他人様に見せられるものを持つことが人生を豊かにすることにつながるということではなかろうか。

 当時、 私は若かったことからいろいろなことを理屈なしに積極的に受け止めることにした。その点幹部団の宴会は、いろいろな面で修練と発表の場となり役立った。並み居る先輩幹部全員の顔や反応が見えるようになるにはしばらく年数がかかったが、場数を踏むにつれて自信は次の自信を生み、何事にも動じることがなくなることに通じていった。

 自衛官も公私の二面を持つ。任務には厳しいが、任務を離れたらそこに人間味あふれる何かを持てということであろう。郷土の民謡を一生懸命に練習した。若い時に苦労・練習したことがその後の自衛官生活に生きてきた。

 後年、様々な場面で、突然、指名されて唄う機会があったり、挨拶をしなければならないことがあったが、多くの場合、自衛隊における練成訓練の賜物で躊躇することなく、その場に応じた役目を果たすことに通じていった。今でも毎週火曜日と金曜日にカラオケを楽しんでいるのもそのせいであろうか。若い時の修練に感謝している。

 

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《 カラオケを楽しめることに感謝している。声を出すことが健康につながるからだ。最近はどうも民謡など唄う機会がなくなった。カラオケも号令調整並みに自衛隊式に大きな声が出てしまうので、出来るだけソフトに唄うよう努力している。》