昭和の航空自衛隊の思い出(100)  初の第一線部隊の官舎等生活

1.民家の間借

 昭和36年9月新人の要撃管制幹部として最前線の部隊へ妻を帯同して赴任した。そこは、千葉県の鴨川町であり駅付近のアパ-トに1間を借りての生活であった。レ-ダ-基地は愛宕山にあり、勤務は厳しかったが、静かな山漁村地域で自然の豊かな環境であった。当時は今日のように観光地化していない時代で、実に風光明媚な南房総であった。

 ただし、当時は、米空軍からのレ-ダ-サイト移管から数年を経ておらず、営外隊員の居住環境は官舎が少なく厳しかった。自衛隊のみならず、住宅事情は全国どこでも同じで住宅の数が少なかった時代で、田舎町で一軒家を借りることなど夢物語で、間借等が精いっぱいであった。トイレは共同、風呂はなしでもっぱら銭湯に通った。炊事場も共同場所、こうした住宅事情から初の部隊勤務が始まった。

    今から考えると、要撃管制幹課程を卒業してやる気満々、意気揚々と赴任した。初級幹部には、当然の如く官舎など入居できる状況ではなかったが、不思議なことにこうした勤務環境をものともしない雰囲気があった。

 誰もがせめてどんなに狭くてもよいから独立した一戸建ての官舎でもと思っていたであろうが、それを口にして不平不満を漏らすことなく、第一線における厳しい警戒監視の任務に就いていた。私も練成訓練・訓練・訓練に明け暮れて余分なことを考えている暇もなかったようだ。

 創設期の部隊建設の最中にあり、皆燃えていた時代であった。南房総は温暖で家族にとっては、素朴な自然に恵まれた環境で買い物など暮らしやすかったように記憶している。

2.   長狭の官舎

  昭和36年9月峯岡山に赴任をして3年後の39年9月になって、初めて自衛隊の官舎に入居することになった。それがレ-ダ-サイトの麓に近い長狭町にたった2軒だけの官舎であった。どうしてここに建設されたのかその経緯は承知していないが、すでに入居しておられた上原基地業務隊長と新入りの運用班長の私であった。群司令以下の主力は鴨川町の広場官舎に入居していた。

 2軒だけの官舎で、上級者の上原さんと家族に助け合うというより助けてもらういっぱうであった。奥様には特別に親切にしていただいた。家内の母親等が訪れた時は、わざわざ手作りの寿司を作ってくださって歓迎していただいたり、本当に二軒家族で昔風のお付き合いであった。こうしたことからその後他所へ転勤しても長い間ご厚誼いただいた。感謝・感謝の良き思い出ばかりである。若い時代は官舎の中でも隣近所には助けてもらうことばかりであった。

 *  長狭町(ながさまち)とは、千葉県安房郡にかつて存在した町である。現在の鴨川市の西部に位置している。

3.坂東の官舎

 昭和40年5月鴨川町の坂東地区に新しい官舎が4軒建設されたので、長狭官舎は8か月にして転居した。坂東官舎も戸数が逐次増えていった。長狭官舎と同じように、ここでも家族同士は親交を深め、長い間ご厚誼をいただいた。大基地の官舎と異なりこじんまりとした官舎地区であったが、年長者の家族からは、その分可愛がっていただいた。

    後年、東京勤務となり、房総半島の旅行の折、鴨川市を訪れ、かって暮らした思い出の官舎を探したことがあった。長狭官舎は廃止されて 跡形もなく、坂東官舎は確認できなかった。あまりにも付近が変貌し短時間で見つけることができなかった。私にとっても家族にとっても初めての官舎生活であり、思い出がいっぱい詰まった場所であった。

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《 昭和40年8月鴨川町の坂東官舎玄関にて2尉のころ、この官舎地区も最初に4戸建設され逐次増えていった。ここでは2回目の自衛隊官舎への入居であった。私自身はもっぱら勤務中心であるが、家族にとっては生活の場であり、皆さんと仲良くし快適な生活を送るコツを学んだようであった。後年、転勤の度に大官舎地区の役員をしたり、官舎地区の市認定の自治会の副会長・自治会長役を務めることになる。こうした小規模の官舎生活の経験が非常に役立ってきた。》