昭和の航空自衛隊の思い出(99) わが人生を豊かにした峯岡山の出会い

 1.我が人生を豊かにしたもの

  人生において良き思い出があると、余生も心豊かに過ごせるものである。再び青春や過去が帰ってくることはない。我が人生を振り返ってみるとき、去来するものは、よき「人との出会い」である。どのような人たちと一緒に仕事をしたか、どのように育ててもらったか、どんな励ましを受けたかなどと数えきれないものがある。

 その中でも、自衛隊という組織に自分が育ててもらった時代は感謝しきれないものがある。それは「人との出会い」であり、そこには心が通う人と人との関係があったからであるといえる。

 2. 自衛隊生活の 三つの時代区分

  昭和30年自衛隊に入隊してから平成2年に定年退官するまでの35年余を、「人との出会い」「人間関係」で大きくを三つに区分することができる。

 ❶組織に育ててもらった時代 (約10年間・操縦学生、空曹、幹部候生、要撃管制幹部と部隊勤務、・2士~2尉)

 ❷組織に育てられながら部下を育てた時代(約8年間・副官、人事幹部と群レベル部隊勤務・指揮幕僚課程・2尉~1尉)

 ❸組織に恩返しと広く後輩を育てた時代(約17年間・航空団・方面隊・総隊等各級司令部勤務、3術科学校の後継者教育、航空幕僚監部勤務等・3佐~1佐)

 3.峯岡山の要撃管制幹部との出会い

    昭和36年から41年における要撃管制幹部として勤務した峯岡山時代は、まさに組織に育ててもらった時代・期間であった。初級幹部として、貪欲に何でも受け入れ伸びていこうという意欲に燃えていたからであろうか。

  昭和30年代後半においては、私が監視管制隊で初めて実任務に就いた時の小隊長は、月成令二郎氏や谷口修(外16)氏であった。

 月成令二郎さんは、水産大学出身、大人で大局を見て細事にはこだわらない方でした。識別不明機(UN)が出現して、緊張感が走ったオペレ-ションにおいてもどっしりと構えて対処しておられ、緊急事態の対処の仕方が非常に参考になった。指揮官のあるべき姿を垣間見た。緊急時に本当のその人の実力と素質が現れるものだ。私の幹部自衛官として修練の究極の目標は、何事にも動じず冷静に対処すべしとの教示を受けた。

 谷口修(外16)氏は、真面目な人であった。研究心・探求心旺盛な上司で新しい要撃戦法についてのどこからか 情報を入手し、真夜中の1時から5時まで私が操作係をしながらシュミレション訓練をしたこともあった。要撃が成功するまで何回でも徹底してやり遂げるその根性に敬服した。戦術戦法についてのあくなき研究心・探求心について啓発されたものである。どの分野であっても研究開発、改善向上についての姿勢に教示を受けた。私が後年人事分野での業務改善に意を注いだ原点がここにあった。警務官として新しい分野に転進された。

 南部宏英(外21)氏は、明るく気さくな方で、職場を明るくしてくれた。どんなことがあってもへこまず明るくふるまうことに教示を受けた。当時、同じクル-で勤務しが、私の妻が長子を無事に出産するも、産後の肥立ちが悪くて急死するといった人生最大の危機と厳しい時に、何も言わないが随分助けられた。クル-全員の暖かい気遣いなど終生忘れることがない。人の一生にはいろいろなことがある。人はそれぞれが心に痛みを秘めて生きていくものだ。

 古井徳松(外21)氏は、同じ小隊ではなかったが、温厚な人柄で優秀な方であった。方面隊に対する戦力評価において全要撃管制官に対する学科試験が行われたが、断トツの最優秀の成績で講評の中に特に固有名詞が記載されたことがあった。私の要撃管制官として識見技能を磨くことの大きな目標となった。後年、将官に昇進され、警戒管制部隊指揮官とし活躍された。

 山岡靖義(外28)氏は、若手要撃管制官の中で頭角を現し、明るく気さくで積極性に富みリ-ダ-シップを発揮した。要撃管制への研究心・向上心は抜群であった。多彩な才能の持ち主で、音楽の造詣が深く、ギタ-はぴか一であった。私が指揮幕僚課程選抜試験の受験に当たってはいろいろと教示を受けた。後年、新人要撃管制官の時私から指導を受けたと述懐されていた。将官に昇進され、要撃管制、警戒管制等を教育する 第5術科学校長等を歴任され活躍された。

 当時、峯岡山には錚々たる人材がそろい、多くの出会いを持たせてもらった。ここでは記憶をたどれば尽きないので省略する。多くの人材が後年、主要な警戒管制部隊の指揮官等へ栄進し、各分野で活躍された。いつの時代もよき「人との出会い」があった。