昭和の航空自衛隊の思い出(96) 若き要撃管制官たち

1.防衛の最前線で勤務することの意義

     私の35年余の自衛官生活を振り返ってみて、昭和の30年代後半の青年幹部時代にわが国の防衛の最前線に勤務したことが非常に役に立ったと思っている。24時間を3交代でロ-ティションする勤務であるが、1回の勤務に居住地から全員集結してお山のレ-ダ-基地へ官用車で移動したりすると、8時間の勤務に対して実質12時間以上を要することになる。峯岡山のような最も恵まれた勤務地でさえしかりであるから、佐渡経ヶ岬、大滝根山など過酷な自然環境下で勤務するところは実に大変であった。

 それを乗り越えたものは、一瞬たりともゆるがせにできない空の防衛の一端を担う航空警戒管制組織の一員として最前線の実任務に就いているという使命感であったように思う。国民の目に触れないこうした勤務地で黙々と任務を遂行した誇り、経験と自信が幹部自衛官としての歩みに強固なバックボ-ンを与えてくれたように思う。どの隊員も同様であったに違いない。

 35年余の長い自衛官人生の中ではわずか5年の期間であったが、最も伸び盛りの、どんな厳しさでも受け入れられる若い時期に、恵まれない環境にも負けず最前線における交代制勤務をやり遂げたという誇りと自信がその後のいろいろな職務の原動力になったように思われる。

 若い隊員には、苦労もあるが厳しい環境下での実任務遂行の機会を持たせることが、本人の将来の充実発展にとって役立つものと考える。今や自衛官にとってこうした任務は日常的となってきた。国民の目に見える身近な災害派遣から海外での国際貢献、国民の面に触れないが最南端から北の果てまで、黙々と様々な任務に励む隊員がいる。

 声を発しないが幾万の自衛官がわが国の平和と独立を守るために頑張っている。隊員の後ろにはそれを支える家族がいる。身をもってその任務に当たったものしか分らない心情であろうか。  

2.今日の若き要撃管制官たち

 退官して25年余、80歳の老兵にとって、いつも元気を与えてくれるものがある。すでに要撃管制の現役から離れて50年余となるが、現在も「コントロ-ラ-会」の助賛会員として名を連ねている。毎回機関紙等を読んで、若き要撃管制幹部課程卒業生の生き生きとした顔ぶれを見ると、自分の若い時の要撃管制幹部として意気に燃えていた時代を思い出すとともに、航空自衛隊、日本の空の守りは「これで大丈夫だ」と思うことがある。若き彼ら彼女らには自ら進んで困難な立ち向かい、あらゆる修羅場を踏んでたくましく成長することを願わずにはいられない。

 航空警戒管制組織も昭和の30年代の手動と違い自動デジタルの時代であるが、飛行幹部、高射幹部と並んで要撃管制幹部は、航空自衛隊の防衛運用の要をなすことにはいささの変化もないであろう。

   いみじくも、要撃管制幹部出身の宇都隆史参議院議員・防衛政務官は、自分のブログに【 要撃管制幹部というのは、日本全国のレーダーサイトを使い、戦闘機やペトリオットに戦闘指令を出すのが仕事。言うなれば、戦局を見つつ戦闘機という駒を動かす「棋士」のようなもので、パイロットにとっては頼りになる女房役です。】と記している。 

3. 要撃管制官は大局を見る目を養うポスト  

    私は、要撃管制幹部としては、わずかの勤務年数であったため、方面隊全体を統括する作戦の中枢に勤務することはできなかった。現場勤務を通じて、要撃管制官のポストほど大局を見る目を養うのに好適の配置はないと思うようになった。短時間にすべての状況を把握して判断・決心しなければならない修羅場を経験することができるからである。時代が推移して作戦戦域が拡大してもその本質は変わっていないのではないかと思われる。

 若き要撃管制幹部は、現場でしっかりと練成・練成に努めて基礎を固め、戦技から戦術・戦略を学るためには、出来るだけ早く各級司令部の作戦を実地に経験することは重要であろう。広く全体を見る目を養うことになるからである。このことがあらゆるものに通じるようになるからである。

 当時、私は身の程知らずで、防空管制所(ADCC)の交差訓練の度にトップダィアスを羨望の眼で眺め、自分の目指す目標は方面隊の戦闘指揮班に入りたいとひそかに思っていた。そのことは実現しなかったが、後年、人事幕僚として各級の司令部勤務となり、担当する分野は異なったが、大局に立って物事を判断・決心し、策案を立て、実行する機会を与えられた。その原点は若き要撃管制官の練成のたまものであった。