昭和の航空自衛隊の思い出(95) 初のスクランブル発令と要撃管制

1.初めての緊急発進(スクランブル)発令

 昭和30年代後半の第44警戒群における防空指令所(ADDC)において、休日、夜間の24時間交代制勤務時に、先任指令官(SD・シニアディレクタ-)に就くことがあった。この時は、勤務上番するときから下番までクル-全隊員を指揮下に収め、オペレ-ション室に入れば、腹を据えていついかなることがあって冷静に所定の手順に従って対処しようと臨んだ。

 先任指令官として、初めて緊急発進(スクランブル)を決心して下命した時はさすがに緊張した。今でもその時の様子は鮮明に記憶に残っている。最初の経験というのはどんな場合でも同じように感じるものであろうか。

 先任指令官として、初めて緊急発進(スクランブル)を発令したしたときは、要撃管制官として昼夜を問わず航空警戒監視の実任務に勤務しているとはいえ、全く忽然と、レ-ダ-スコ-プ上に彼我不明(UN)の航空機発見の報告と同時にオペレ-ション室に警報が鳴り、一瞬ドキッとし胸が高鳴った。昔から俗にいう「武者震い」というもであろう。

 一瞬が過ぎると直ぐに「ついにきたか」と平然と対処することができた。これは平素から同一のクル-で先輩の対処要領を何回もそばで見てしっかりと頭に叩き込んでいたからであろう。むしろこの時は待ち構えていた来るべきものが来たというところであった。2回目以降は、緊張感を持ちながら冷静に対処していった。

 実任務の彼我不明機(UN)の発見と対処となると、普段の訓練・演習とは全く違った緊張感と覚悟を要する。彼我不明機(UN)に対する報告・確認・緊急発進(スクランブル)の決心・発令・管制・確認・防空管制所(ADCC)への報告等刻々と変化する状況の把握、秒単位でのやり取り、オペレ-ション勤務者に対する所要の指示などをてきぱきとこなした。緊急の対応措置が終わり、隊長、群司令への報告等もあった。

 こうした時の先任指令官の対処は要撃管制幹部としての手腕と実力を問われることになる。緊急時はすべてその任に当たったメンバ-の真価が分かるものだ。

 彼我不明機(UN)を発見した時から緊急発進(スクランブル)の決心・下命に至る一連の動きは、現況表示でクル-全員が知ることとなる。的確な状況判断・決心・命令指示など指揮官・幹部としての能力・実力がすべて部下隊員にさらけ出されることになる。

 ゆっくりと情報を収集・分析・評価し、対処策を練ったり話し合ったりしている時間は与えられない状況におかれる。わずか数分の間に行うことが求められる。

    こうしたことを日常的に、第一線の実任務に就く要撃管制官は行っている。若い時代にこのような厳しい修羅場を経験すると自信がついてきた。また、先輩たちが経験した厳しさや胸中が分かるようになった。後輩たちがこうした経験を積みながらぐんぐんと伸びて優秀な幹部自衛官になっていく様子も見てきた。

 一方、そこには世界に誇る熟練の優秀な空曹陣が先任指令官を始め要撃管制官の周囲を固めており、適切な判断と決心をすれば航空警戒管制組織は有効に機能した。昭和の30年代後半にこうした実任務についた経験は私の自衛官人生に後年あらゆる場面で生きてきたのである。   

2. スクランブル機初コントロール

 要撃管制官として、初級の運用資格を取得してからは、しばしば彼我不明機(UN)に対するクランブル機のコントロ-ルを経験した。当時の緊急発進手順は手動の時代であったが、徹底した訓練をして練度を上げていたので緊急発進に対する手順は、慌てることなくできたように記憶している。

 レ-ダ-スコ-プで彼我不明機(UN)の航跡を発見したら、オペレ-ション内に赤ランプがつき、所内はいっぺんに緊張感が高まる。諸情報と照合し、先任指令官が緊急発進(スクランブル)を決心して下命したら、直ちに要撃管制官の指定が行われ、担当要撃管制官はスコ-プに位置して要撃管制の態勢に入った。

 私が初めてスクランブル機を要撃管制した時は、突然の指名とはいえ、ぼつぼつ指名されそうだと予想していた。何事も初は緊張するが割合冷静に対処できたように記憶している。その後は回を重ねるごとに自信を持って対処できるようになった。手動の時代であり、周囲の状況も確認しながら対処した。場数を踏むことが実力と自信をつける事につながった。 

 彼我不明機(UN)への対処は、クル-の全員はもとより防空管制所(ADCC)等すべての機能がその動向を注視しいる中で実施するわけで、厳しい重い任務を代表選手として果たしている感じであった。任務を終えると達成感と程よい疲労感を覚えたものであった。