浜ちゃん日記 男の身体と心の年輪

 私の良く歌う北島三郎の歌や世間話で[年輪]という言葉がよく使われる。樹木の年輪は1年に一つずつ成長輪を形成し増加する。人の場合はどんな形で年輪が残るのであろうか。

   人生は歳を重ねるにつれて、「心」と「身体」に「年輪」が刻まれているであろう。人生の歩みは様々であるが、「心」と「身体」において有形・無形、外形・内面に年輪が刻まれているはずである。

1.   身体の年輪

 こうした観点で、自分の身体全体、頭から足元までの各部に目をやってみると年相応の膚としわがしっかりとできている。若い時はなかったシミや色素の斑点がはっきりと残るようになった。これは「年輪のしるし」といってよいであろう。

 昔から、男は40歳以上になったら、「自分の顔に責任を持て」といわれている。それは男がひとつの仕事に打ち込み、30年、40年と厳しい修行を積めば容貌にあらわれるからであろう。

    男の顔に責任があるといわれるのは、他人から与えられたものではなく、自らの努力、精進の蓄積がそこにあらわれるからであろう。そこには厳しい風雪に耐えた樹木のごとく、顔そのものに「自信・威厳と風格」が備わった男の顔が出来上がり、しっかりと生きた証でもあるからである。 

   男の顔に刻まれた「しわは男の象徴」とも言われた。「男の顔は履歴書」という映画があったくらいで、あるほど頷けるものがある。

2.  心の年輪

 身体の年輪に対して、心の年輪は分かりにくい。外形として現れないからであろう。しかし、心は自分にしか分からないが己に問いかけて心の遍歴を思い出してみると人生観・物の見方考え方などにあらわれていることに気付くものだ。

   こうした観点でみると、心の年輪はしっかりと各人の人生観・物の見方考え方に刻み込まれている。酢いも甘いも噛みしめいろいろなことを経験した結果のものだけに千金の重みがある。

 心の年輪は、その人の人生観・物の見方考え方に現れているから日々の発言や行動、さては社会的な活動などに表れてくる。つまるところその人そのものが年輪と言ってよいのではなかろうか。分けてみなくても、その人そのものがすべての年輪を刻んでいることに気付くものだ。

3.   心すべき頑固さ

   若いときは柔軟性に富み多くを受け入れたが、高齢になるとこり固まって、頑固になるものだ。私も家内からよく言われることがある。それはどこから来ているであろうか。

   昔からの言われた良い意味での「頑固オヤジ」とは違うようだ。「心の年輪」とも言えないであろう。これらは意外に面倒くさいといった面から出てきているように思う。その元は、自分の身体が知らぬ間に衰えて諸事万端に億劫になりつつあることからきているようだ。老いていくと最終的には身体がついていかないということである。

    「どうでもよい」「 そのままにしておけ」「面倒くさいことはやめておけ」「余分なことはやりたくない」は人生の最終コ-スのシグナルかもしれない。ふとこんなことを 思ったりすることがある。