昭和の航空自衛隊の思い出(93) 厚木基地海兵隊への連絡幹部

1.  厚木基地海兵隊への連絡幹部

 どんな器材でもそうであるが、警戒管制組織においてもレ-ダ-機器の定期点検等が行われる。一瞬の停止もなく連続して警戒監視管制任務を遂行するには隣接サイトがカバ-するなどいいくつもの機能が補完し合うようシステム化されている。その間に各所に派遣されることもあった。そのほかでは、昭和30年代末の峯岡山分屯基地に勤務した折、単身で厚木基地の米海兵隊へ20日間ほど派遣されたことは、いまだ忘れられないほど強い印象が残っている。

 航空自衛隊で言えば、移動警戒隊のような装備を持つ海兵隊の移動警戒隊部隊であった。米空軍連絡幹部の車で基地内に入り、米軍の将校宿舎に宿泊して、毎日レーダ-部隊に出かけて自衛隊機等の支援に関する連絡幹部任務を遂行したことがある。

2.日本国を代表した気概

 昭和の30年代の後半であったが、広大な米海軍厚木基地内を航空自衛隊の制服で一人で行動するせいか緊張感もあり、精神的にも普段より高揚していた。こうした場所に行くと、自衛隊の一幹部というより「日本国の代表」といった感じであった。要撃管制官としての職務・業務内容は、自衛隊の方式とほぼ同じであったので特に困ることもなかった。

 レ-ダ-器材は異なっても機能と運用は同じようなもので必要に応じて連絡幹部の役割を果たした。米海兵隊将校は、自衛隊の2等空尉といえども万国共通の階級相応の軍人として遇されて、軍人に対する国家としての在り方、軍人の地位と処遇等について、大きく世界を見渡せる機会となった。

 ときには、夜の将校クラブに招かれて、華やかな軍人家族がいっぱいいる中で、日本の航空自衛隊将校を紹介すると壇上に招かれ、万雷の拍手で歓迎された事もあった。厳しい任務に服する軍人には国の垣根を越えて共通の理解と通じ合えるものがあることを経験した。

3.海兵隊軍紀に接する

 毎日、海兵隊の移動警戒隊部隊の幕舎に入って連絡業務に従事したが、出入りに当たっては、海兵隊らしく兵士の敬礼、服装態度は厳正で、私も一層厳正に答礼したものである。峯岡山で常日頃接する空軍の連絡将校とは違ったものを感じたり、普段から見聞してきた精鋭の米海兵隊の一面を観察することができた。若い時代に貴重な経験をすることができて要撃管制官の役得でもあった。

4.創設期の自衛官の米国留学

 航空自衛隊が昭和29年に創設されて以来、数年間は多くの幹部自衛官及び空曹自衛官が米国へ留学し、部隊建設及び術科学校教育の基幹要員となっていた。

 私が要撃管制官を志した当時は、もしやという思いもあったがすでに遅しで、要撃管制幹部課程は国内教育が主となっており、米留の機会はなかった。第44警戒群における防空指令所(DC)における主要な幹部は米国留学経験があり、大国アメリカのお国ぶりなど事細かく聞くことができた。

 この当時は、一般の海外旅行など夢の時代であった。米軍連絡将校との交流、国内での米軍基地内の研修や連絡業務でちょっぴりその雰囲気を感じることができた。