昭和の航空自衛隊の思い出(90)要撃管制官の技量向上

1.  マンツーマンの新人教育

    昭和36年9月、要撃管制官として、初任地の峯岡山分屯基地に勤務した。要撃管制幹部課程を卒業し,第一線部隊に配置されても、すぐには実任務に付けない。所定の運用資格を取得して24時間勤務体制の実任務に就けた。

 峯岡山分屯基地に所在する第44警戒群は、防空指令所(DC)として警戒管制組織の基本的な機能がすべて備わっており、新人の練成訓練に最適の場所であった。

 特に、警戒監視機能、スクランブルと要撃管制機能は、要撃管制官を急速練成し、実任務に必須な運用資格を取得させるのに最も実戦的・能率的・効率的な配置であった。ここには上級、中級の熟練した先輩の要撃管制官がいて、計画的・組織的な練成訓練体制や勤務環境が整っており申し分なかった。私にとっても多くの先輩要撃管制官の指導を受けながら一緒に勤務したことが非常にためになった。

2.  戦術戰法の研究と熟練

   24時間の勤務体制において、交代制勤務で上番した際は、通常の計画された警戒監視業務を遂行しながら 、戦闘航空団と連携した戦闘機による戦技訓練を行い、双方の戦技能力の向上を図った。

 要撃管制官にとっては、操縦者も同じであるが、単なる技量の向上にとどまることなく、全体のふくそうした状況下における「運用・戦略眼」を基盤とした「戦術眼・能力」「要撃管制技量」が必須の世界であり、初級幹部時代は、要撃戦技の「実力」・「技量」がすべての基本であった。

 毎回の上番勤務間、要撃管制官相互で戦術戦法の研究と要撃戦技の熟練に専念した。他方面隊のDC、航空団の交差訓練や米軍飛行隊の研修等から入手した情報を元に新戦法と要撃管制術を真剣に議論したものであった。 

3.我こそは神様と小天狗・大天狗

 私が勤務した昭和30年代は手動の警戒管制組織時代であり、要撃管制官にとっては要撃管制能力が絶対であった。要撃の神様的な存在の要撃管制官にいたっては、1回も失敗をすることなく、時には不利な状況にありながら神業の如く要撃を成功させる技量たるや羨望の眼で眺めたものである。

 従って、そのためには1回でも多く戦闘機による要撃訓練をしたいと全員が願ったものだ。内容のある高度な技術を伴う要撃訓練を体験することが必要であった。一方、要撃戦技に関する研究心とたえざる研さん努力が求められていた。深夜から朝方までシュミレ-タ-による訓練は数限りなく実施した。

 今でも名前が浮かぶほど各DCには全国に名をはせる神様・名人級がおり、至る所に大天狗、子天狗が存在した。創設期の世界であったせいかもしれないが、私も若輩ながらひそかにそれを目指していた。

 こうした状況下であったせいか、一定の技量に達していながらも、時には休暇で戦列を離れると、わずか数日であるにもかかわらず、カンと腕が鈍るようにさえ感じたことがある。現場における全要撃管制官のこうした意識・意欲とたゆまぬ戦技の練磨が警戒管制組織の全体の能力向上につながっていたように思う。

 この若い時代の経験が、後年、人事職域に転進しても常に要撃管制官並みの研究と練磨を求めることにつながっていった。自らも修練すると同時に職域全体のレベルアッブと指揮官の適時適切な補佐、真に部隊活動に寄与する人事施策のあり方など退官に至るまで追い続けることになった。 

4.対領空侵犯処置等

 要撃管制官としては、実任務に就くにあたっては、対領空侵犯処置要領について、法制面と実際の対処要領を徹底的に頭に叩き込んだ。特異事項のない深夜は要撃管制官の席でじっくりと学習した。