昭和の航空自衛隊の思い出(86)  新任地への引っ越し準備

1.新任地峯岡山レーダーサイトへの内示と住居探し

   昭和36年9月、小牧基地の管制教育団におけるだ要撃管制幹部課程を卒業する日が近づいたとき、初任地が内示された。千葉県の房総半島の南端にある峯岡山レーダーサイトであった。

    早速、地図で調べてみると房総線の安房鴨川駅を降りることを知った。初めての未知の土地でどんなところかと想像するのみであった。今のように、スマホやインタ-ネットで町の状況を調べたり、メディア番組でいろいろな情報を知ることができなかった時代である。先輩教官たちの話を聞いて、鴨川は大きな町である事を知った。この町に住み、自衛隊の車で約50分で峯岡山にある基地に行けるとのことであった。

   一番の心配は、住居の確保であったが、官舎はあるが新参3尉は入居できないことを知った。まだまだ官舎の数が足りなくて生活基盤の安定・勤務環境への後ろ立てができていない創設期であつた。

   官舎数の関係から 主要な幹部のみか入れず、大部分の幹部及び空曹は、町の借家、間借りしかなかった。同時期に赴任することになった同期等も全員同じであった。

    当時どのような方法で住居を確保したのか記憶にないが、新任地の部隊で探してくれた中で選択したのではないかと思う。新住居先はアパートの一部屋8畳を借りるのが精いっぱいであった。今から思えば、隣の話し声が聞こえるぐらい粗末なところであったが、これが現実であった。着任して分かったが、住居に関してはどこを探してもこれ以上を求めることができなかったのである。

 2.引っ越し人生の始まりと荷物の整理

 当時、妻は妊娠しており、来年3月出産予定であった。今日のように引っ越し専門業者のなかった時代であった。選択の余地はなく、国鉄の貨車便を使って家具類を送ることにした。

 初めての本格的な引っ越しであり、日本通運に行って申込み、どのような準備をすればよいか、荷造り梱包はどうすればよいかなどを教えてもらい、訓練が終わり帰宅してから、休日を利用して材料を購入し、縄を使って荷造りを始めた。

 国鉄輸送は、タンスも材木で枠組みをして梱包することになり、見よう真似ようで、それこそ大変な作業を経験をした。その後、時代とともにと便利になってきた。トラックでの一括輸送、コンテナによる輸送等と効率的なものに変ってきた。それにしても、最初の引っ越しだけは本当に、孤軍奮闘して苦労が多く終生忘れ難いものがある。

 引っ越し自衛官生活も最初は苦労の連続であったが、回を重ねるにつれて経験と練度が飛躍的に向上したこと、引っ越し専門業者の登場で、引っ越しに関しては自信とプロ級を任じるようになった。人生とは面白いものだ。

 3.引っ越しに伴う手続き

 引っ越し手続きの中で、役所への転出転入の届け出などすべてをこなした。車の無い時代でバスや自転車で行ったり来たり、新住所への転入手続きなど住民票の必要数の交付など合理的、能率的に行うようになった。当時は米穀配給書類もあった。お米屋さんに提示してお米を買う時代であった。時代とともに米穀配給書類制度も形骸化して使われなくなった。

 転勤に伴う隊内の移転料の申請、諸報告には新住民票の所要部数を必要としており、こうした手続きも引越しの度に一層手際よくなった。「生活の知恵」ならぬ「引越しの知恵」である。