昭和の航空自衛隊の思い出(84)  要撃管制幹部課程

1. 小牧基地と管制教育団 

❶ 小牧基地の特色は、昔も今も、同じ滑走路を自衛機と民間機が共用してきたことではなかろうか。今では普通のこととなったが、当時一部では自衛隊機と民間機が同じ滑走路を使用する問題点を極端に取り上げたりしていた。これも官民の英知で共存共栄の道筋を付けた基地、先覚の基地との印象が強かったように記憶している。現在は愛知県が管轄する県営名古屋空港滑走路を使用している。

❷ 昭和35年当時の小牧基地は、第3航空団と管制教育団が主要部隊であった。基地業務は第3航空団が担当し、基地の消防・施設の維持管理等、所在部隊の後方支援を行っていた。 

   昭和37年10月管制教育団が廃止され第5術科学校が創立された。46年3月航空救難団整備群が創立され、 救難教育隊が浜松から小牧へ移動した。53年3月第3航空団が三沢基地へ移転し、 第1輸送航空隊が創立された。

 こうした大きな動きの中で、小牧基地は、第1輸送航空隊の所在により、今や国際平和協力に飛び立つ輸送部隊の基地として知られるようになった。第1輸送航空隊は、主に人員・装備品の航空輸送や車両・物料の空中投下、戦闘機に対する空中給油を行う部隊で、これまで国際平和協力業務等(PKO、イラク復興支援)でも活躍している部隊である。

❸ 当時の管制教育団の任務と現在の第5術科学校と任務はほぼ同じであろうと思われる。ジェット戦闘機を誘導する要撃管制技術教育、航空機を安全に飛行させたり離着陸を管制する航空管制技術教育、英語教育のほか時代の推移の中で電子計算機のプログラム作成等の教育が付加されたことであろう。

 昭和35年12月から36年9月までの10か月間、管制教育団に所属し、要撃管制幹部課程を学び、要撃管制幹部に進んだことにより、防衛の最前線に立ったことで、幹部自衛官としての生き方、厳しい防衛運用の透徹した考え方に大きな影響を与えたように感じている。こうして小牧基地は、見習幹部及び3等空尉への任命、家族を帯同しての初の移転など私にとっては思い出の基地となった。

2.要撃管制幹部課程

  昭和36年6 月、第18期要撃管制幹部課程(14週間)を学び、同年9月19日課程修了した。座学で所定の課目を学び、実機を要撃管制した。

   要撃管制システム全般を理解し、どんなに困難な勤務環境であっても立ち向かう覚悟と気概もできた。日本の空を守る警戒管制組織の最前線に立つ日がやってきた。

   第23期一般幹部候補生課程(部内)を卒業、要撃管制幹部課程を修了し要撃管制幹部への道に進んだ者は、6区隊・中村克己・*千綿安次・前田勲・古賀健彦・井口茂人・有田周治 7区隊・猿渡久雄・井嶋鉚一・園田顕二・*濵田喜己の各氏(*印は第1期操縦学生出身2名)であった。

 23期部内幹候60名のうち10名が要撃管制職域に進んだことから見ても、当時いかにわが国の空の守りの砦となった警戒管制組織の建設に人的戦力を注いでいたのかうかがい知ることができる。

 英語課程は同期が全員一緒に学んだが、実機管制を主体と要撃管制幹部課程は少人数、6名前後に組み分けされてクラスが編成されて課程を学び逐次卒業していった。

 部隊における新人の養成は、防空指令所(DC)であった主要な背振山笠取山・峰岡山・大湊・当別サイトに分散配置され、初級の資格等を取得したら一部はその他のサイトに再配置された。

3. 高蔵寺における 実機の管制

 当時の要撃管制は、レ-ダ-スコ-プに向かって、実機を管制することであり、英語の要撃管制用語を使って、自由自在に実機を動かすことを演練に演練を重ねた。

    空中で定点に最短距離と最短時間で会合させることの困難さを経験した。スコープ上では航空機が一つの点でしか見えないがレーダーの回転のたびに刻々と進む状況を測定し、進路方向、速度、高度を知ることができる。最初は失敗をしながら再度挑戦し少しづつ自信を付けていった。

   空中のあらゆる状況を把握し、自分の思うとおり操縦者に指令し、要撃管制することの難しさを嫌という程知ることとなった。要撃管制の理論が分かって、実際に実機を要撃管制するには、一に訓練、二に訓練と、技量の向上を図ることが求められた。

   そして、実機による訓練を重ねるたびに毎回が新しい発見、納得、コツの習得の連続であったことを覚えている。毎日良かった点、失敗した点、改善点を列挙して二度と失敗をしないぞとスコープに向かった。毎日が緊張と修練であった。

 高蔵寺山頂に位置する管制訓練室は、春日井市東部に位置する高座山・標高194mにあったように記憶している。どちらかというと低い山であった。

 要撃管制訓練日は小牧基地から車両で出発し所定の訓練を終了したら夕方小牧基地へ帰るといった学生生活であった。山頂で眺める下界の美しさは格別であった。真夏も迎えたが、管制訓練室は機材の保護のため冷房が効いていたように記憶している。今となっては忘却の彼方となってしまった。むしろ卒業して次の任地・第一線部隊の記憶の方が強烈に残っている。

 4.初めての名古屋場所の観戦

 初級幹部となって、小牧基地の幹部会の一員に加わった。その行事の中で、名古屋場所の大相撲を全員で見物することができた。土俵から離れたところであったがその真剣な勝負、取り組みを観戦し初めて大相撲に親しむこととなった。

 何事も初めてのことは印象が強いものがある。空調装置のない時代で氷柱をおいた時代であったが、若い時の体験はこれで十分であった。後年、砂被りで観戦する機会を持つことになった。若い時の体験は人生を豊かにするものではなかろうか。 

 

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《 要撃管制幹部課程の卒業写真、中央の分校長を囲んで前列に学生が並んだ。丹羽聖尚(外25)・前田勇(内23)・山下民夫(防3)、有田周治(内23)・尼子暢久(防4)・濵田喜己(内23)の6氏で出身期が異なる混合クラスであった。後列は教官陣で、後列右から2番目の同郷・鳥取県出身の井上旦教官には、とてもよく面倒を見ていただいたことが忘れられない。》