昭和の航空自衛隊の思い出(82) 小牧基地・管制教育団と周辺の史跡・珍祭

1. 小牧基地と管制教育団

    昭和35年12月小牧基地地に所在する管制教育団に所属となった。基地の概要で見られるとおり、第5術科学校の前身である管制教育団は、昭和33年10月1日松島基地 にて長官直轄部隊である「管制教育団」を編成、同日小牧基地へ移動した。

 昭和34年1月には仙台管制教育分遺隊(後の第2分校)を新編、同年3月 高蔵寺管制教育分遺隊(後の第1分校)を新編、更に、同年6月 飛行隊(後の飛行課)が新編された。

 私が、昭和35年12月に要撃管制幹部学生要員として小牧基地の管制教育団に配置になったころは、編成されて2年後の建設期にあったといえる。その後、昭和37年10月1日 管制教育団が改編され、「第5術科学校」が設置された。

小牧基地の概要は、基地ホ-ムぺ-ジに掲載されているので細部は省略する。

 

 航空自衛隊小牧基地ホ-ムぺ-ジから掲載(出典)

 航空自衛隊小牧基地は、濃尾平野の北東部、名古屋市の中心から北方約15Kmに位置しています。総面積は約120万平方メートル、隊員数は約1,800名です。
基地の行政区分は小牧市春日井市及び豊山町の2市1町にまたがっており、庁舎地区等は小牧市に属しています。

 小牧基地の特色としては、愛知県が管轄する県営名古屋空港滑走路を使用
していることで、海外への輸送任務を有する第1輸送航空隊をはじめ8つの
部隊があります。

昭和19年 2月
旧陸軍小牧飛行場として発足
22年 5月
在日米軍使用開始
27年 3月
名古屋空港 民間航空使用開始
(29年7月 航空自衛隊発足)
33年 5月
第3航空団小牧へ移動
33年 9月
米軍から管理権返還
34年 5月
航空自衛隊小牧基地」開庁
11月
管制教育団 改編管制
37年10月
管制教育団廃止、第5術科学校 創立
46年 3月
航空救難団整備群 創立
救難教育隊が浜松から小牧へ移動
53年 3月
第3航空団が三沢基地へ移転
第1輸送航空隊 創立
平成元年 3月
第5術科学校 航空教育集団隷下へ
1輸空隊、救整群、救教隊及び気象隊は航空支援集団隷下へ
2年  3月
第1輸送航空隊改編(基地業務移管)
21年  5月
小牧基地開庁50周年

  

2.小牧基地周辺の史跡と珍祭

❶ 小牧山 

 小牧基地に転勤してからよく訪れたところは、小牧山であった。標高86mの山で、

かつて織田信長の居城・小牧山城があった。当時は朝に夕なに眺めた山で、遠くから見ても小高い山という感じであった。お城の建物もなく素朴な場所であったように記憶している。私の前に浮かぶのは遥か半世紀前の小牧山である。

 現在は山全体が公園となり立派に整備されており、桜の名所としても知られる。山頂にある天守閣風建物は、昭和42年に建てられたものである。

 
 
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《現在の小牧山

 

 史跡小牧山概要版   小牧市ホ-ムぺ-ジから・出典

 戦国時代 永禄6年(1563年)、織田信長小牧山城を築き、清須城から居城を移す。また、小牧山南麓に城下町を計画的に整備。4年後に美濃の斎藤龍興を攻略して稲葉山城(岐阜)へ移り、小牧山城は廃城となる。

 安土桃山時代 天正12年(1584年)、小牧・長久手の合戦が起こり、犬山方面から南下する豊臣秀吉軍に対抗して、織田信雄徳川家康連合軍が小牧山城跡を改修し陣城を築く。和解が成立し、小牧山城は再び廃城となる。

 江戸時代 将軍家開祖の徳川家康公「御勝利御開運の御陣跡」として尾張藩領となり、一般の入山が禁止される。この結果、山中の堀や土塁などは残存状態が非常に良好で、日本の城郭史上、貴重な資料となっている。
 また、信長の城下町の名残の町場は、尾張藩の上街道整備に伴い 小牧山の東(現在の中心市街地)へ移転して宿駅として整備され、城下町跡は田畑となった

 

 ❷ 田縣神社の珍祭

  わが自衛官人生は、全国の各勤務地で生活することから、休日には周辺の行事、珍しいことに出合うことがある。所変われば品変わるの如く、その土地の風土と歴史に親しむことになった。小牧市のお祭りの中で最も印象に残ったのは、田縣神社の珍祭として知られる「豊年祭」であった。

 最初、訪れた時にはびっくりした。これがお祭りの中に入っていくと、五穀豊穣、万物育成、子孫繁栄を祈願する古来からの人間の素朴な究極の願いが集約されたお祭りであることが理解できた。庶民の守護神であったのだ。皆んな真面目・真剣な顔をしている一方、笑顔いっぱいのお祭りで不思議なところであった。

 遥か半世紀前に訪れたお祭りであったが、強烈に印象に残る豊年祭であった。多くの人は奇祭として取り上げているようであるが、田縣神社 公式ホームページサイトによると、当の宮司は「珍祭」」としているようだ。ごろ合わせからも「珍祭」の方が座りがよいようだ。こうした珍祭はその場に行って溶け込むのが一番良く、その雰囲気にのまれ、普通のお祭りに感じられるようになる不思議なお祭りであった。

 したがって、説明はすべて「田縣神社 公式ホームページサイト」を転載した。  

 

 愛知県小牧市鎮座   田縣神社 公式ホームページサイトから・出典 

 ようこそ田縣神社

 当神社は、古来より五穀豊穣、家業繁栄、開拓の祖神として崇められております。特に大同二年(807)に編纂された古典『古語拾遺-御歳神の条-』の故事に基づいて男茎形を奉納し祈願する俗習があり、「産むは生む」に通じて、恋愛、子宝、安産、縁結び、夫婦円満、商売繁昌、厄除開運、諸病の平癒の守護神として、全国の崇敬者から格別の崇敬を受け、また世界各国の人々から注目される神社でございます。(宮司 粟田孝浩)

 

 

 「野も山も みなほほえむや 田縣祭」例大祭は国の内外で有名な豊年祭として、毎年三月十五日に執り行われます。この祭は直径六〇センチ、長さ二メートル余りの大男茎形(男性の性器)を毎年新しく檜で作成し、それを厄男達が御輿に担ぎ、御旅所から行列をなして当社に奉納し、五穀豊穣、万物育成、子孫繁栄を祈願する祭です。当日は世界各国からの参拝者で境内は埋まり、「見くらべて 笑えこの梅 あのさくら」の詩歌の如く、国境を越えてみな微笑む祭で、まさに「天下の珍祭」であります。