昭和の航空自衛隊の思い出(81)  引越し自衛官人生の始まり

1.   厳しい奈良幹を晴れて卒業

     昭和35年12月13日、航空自衛隊幹部候補生学校における第23期幹部候補生課程(部内)を卒業した。昭和35年2月1日、奈良の地に入校してから10か月間の初級幹部自衛官として の職務を遂行するに必要な知識及び技能を修得するため教育訓練を終えた。

 俗に厳しい「奈良幹」と定評がある教育訓練ではあったが、私にとっては、幹部を志し希望に燃えていたこと、体力気力が充実して若かったこと、向学心・向上心を保っていたことなどからあまり苦労したという記憶がない。

   それにしても入隊以来の念願がかない、第1操縦学生の同期の後にくっつくことができた。感慨無量であった。妻は卒業を非常に喜んでくれた。

2.  引越し自衛官人生の始まり

 幹部候補生学校卒業後は、「要撃管制幹部の道」を進むため卒業と同日付で小牧基地の管制教育団へ所属となった。

   奈良の入校10か月、家内は浜松の実家でお世話になっていたが、本格的に初級幹部として要撃管制幹部英語課程を経て要撃管制幹部課程を学ぶにはまず足元の家庭をしっかりと固める必要があった。いったん浜松へ帰り、家内を帯同して赴任することに決めた。

 そうはいっても、当時、学生要員には官舎もなく、それを支援する体制も整っておらず、初めての小牧基地の事で地理も不案内で、知り合いがいるわけでもなかった。皆の情報を頼りに、一軒一軒訪ねて、民家の空いている部屋などを見つけるに本当に苦労した。 

3.    民家の離れ間を借りる

 幸い要撃管制幹部英語課程が昭和36年1月5日からの開始であったので、着任後は小牧基地周辺の民家を訪ねて、近くの大山というところの農家の離れ間を借りることができた。

 今思えば、想像しがたいほど住居環境は悪く、農家の風呂もトイレも借りるといった生活環境であった。どこを探せど間借するところがないくらいで、現在のように恵まれた住宅事情は夢のまた夢の時代であった。

 卒業と同時に幹部勤務となり、初級幹部としての諸勤務を果たす傍ら、住居の設定をして、トラックで所帯道具一式をまとめて浜松から小牧へと運んでもらった。家内の両親には本当にお世話になった。まだ自家用車の少ない時代で、通勤は自転車であった。

 ここからが、自衛官生活即引っ越し人生の始まりであったせいか非常に印象に残っている。

 よくしたもので、大家さん夫妻は親切な農家で、地域の要職につかれた人徳のある方であった。その後、長い間年賀状等をやり取りしご厚誼を頂いた。

   幹部自衛官人生のヒヨコの時代であり、一度は訪れてみたいところである。私は付いていたのか、その後の民家間借も親切な人たちでいやな思いをしたことはなかった。「人生至る所に青山あり」であった。ありがたいことであった。