昭和の航空自衛隊の思い出(75) 卒業時の色紙に「誠心」と記す

1.卒業時の色紙に「誠心」と記す

    昭和35年2月、航空自衛隊幹部候補生学校に入校し第23期幹部候補生課程(部内)で10か月間、初級幹部自衛官として の職務を遂行するに必要な知識及び技能を修得させるための教育訓練に励んだ。
    昭和35年12月、課程を卒業するに際して、区隊ごと色紙に全員が記念の言葉を書き残した。
    私は「誠心」と認めた。奈良を巣立つにあたって、この初心を忘れず終始一貫して過ごしたいと思った。自衛官人生はこの一言に尽きたように思う。
    顧みて、操縦学生課程から幹部候補生課程を通して、あまり目立たない存在であった。結構こうしたグループがどの集団でもいるものだ。どちらかといえば、派手な立ち振る舞いは性に合わなかった。
    したがって、皆が騒いでも仲間には入るが静かにしている方であった。俗にいう「おとなしい方」であった。自ら進んでトップに立って区隊を率いる方ではなかった。特に部内幹部候補生課程では若手組のひとりで、何事も年長組がリ-ダ-シップを握っていたような気がする。
    それは自分の性格からくるものであったと思える。普段はじっとしていて、どうしても出なければならないときに動き出す、出るべき時に出るというタイプであった。
   同期同僚とはどんなことでも気軽にいっしょにつき合っていたが、多くは聞き役に回る方が多かった。地味な方だったったかもしれない。しかし、自分の考えは常に持っていたがあまり表に出さず黙っていて、発言しなければならない時は臆することなく所信をのべた。
   こうしたことから、区隊長等からしても学生としての印象は影が薄く、特別に強烈なものはなかったのではないかと拝察する。
 
2.  自分の力量・ 器を知り努力する
 人間ある歳になると、自分の力量、器が分かるものである。候補生当時は自分自身の資質能力を一生懸命磨く過程であったが、学生としての研鑽と部隊勤務により次第に得意な面と不得手なことははっきりしてきた。
   自衛官生活では、得意な面は自信を持って立ち向かい、努力してもなお不得手な分野は部下の力を借りるようにした。本当によく補佐をしてもらったので感謝している。多くの上司・同僚・部下に支えられて自衛隊勤務を全うできたといって過言ではない。
    社会人としての役割の中で、全く性に合わなかったり、その器でないことはきっぱりと断ることにしていたが、世間一般にできることは、「請われたり、頼まれればことわれない」性格なのか、大抵のことは引き受けてきた。
 推されてその役に就けば、誠心誠意尽くすことを旨とした。自分の父親も同じ性格・容貌であったので一番遺伝子を受け継いだのかもしれない。特に抜き出た才能はなかったが、努力してその役割を果たしてきたといってよい。
 退官後の地域における活動等も、OB団体・自治会・シニアクラブなどなど代表役も務めたが、現役時代と同じように大体同じ調子でやってきた。これは終生変わらぬであろう。つまるところ「誠心」は自分の心の持ち方、他人に対する接し方であって特別なことではないと思っている。普通に暮らしているが、そこに自分の持ち味が出せればこれが個性というものであろうか。 
 

 第23期一般幹部候補生(部内)の卒業寄せ書き

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 《 近持区隊長を囲んでわが7区隊の色紙、「誠心」と遠慮がちに認めている。 》

  

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  《 上田区隊長を囲んで6区隊の色紙 》