浜ちゃん日記 歳をとっての甘え

 1.99歳のおばあちゃんに学ぶもの

    わがシニアクラブに99歳のおばあちゃんが乳母車を曳きながら毎月の定例会にやってくる。家族は一切手助けをしない。毎週何回かのゴミ出しも集積所まで乳母車に乗せて自分で運んでいる。

    毎日、新聞は角からすみまで読んでいるとおっしやる。テレビより新聞の方が良いとのこと。受け答えは確りしたもので笑顔がかえってくる。表情が豊かである。

 高齢者なりにゆっくりとした身のこなしであるが、動作は確実で気丈である。そこには高齢者特有の「甘え心」がないのに驚くばかりである。

 クラブの会長たる私にとっても、「雨風でも、月一回の定例会にはどんなことがあっても参加したい」という言葉をいただくと嬉しくて最敬礼してしまう。

     私も、白寿まで生きて、毎日、新聞を読み、テレビを楽しみ、ブログが書けたらとたわいもないことを求めている。

    この様な質の高い日常生活ができたらと、正月の初夢にしたい。私の求める老いの生活である。

 

2.年寄りの甘え心

    歳を重ねると、ついつい自分自身に甘えてくるものだ。子供時代の甘えそのものではないが、年寄りの「甘え心」が出てくる。

    多くは日常生活における 自分の手や足を動かしてできることを、他人に頼ることである。確かに楽ではあるがいつの間にやら、自らが自分の身体の機能を低下させているのである。

    高齢者の甘え心は 、酸いも甘いも分かった上での甘えであるからその取り扱いや対処が難しい。私自身も分かっていて甘え心が時たま出てくることがある。この辺のところは曰く言い難しと微妙である。

    歳をとれば取るほど、体力と気力が低下してくるため、自分でできることは自分でやらないと、ダメになってくる。

    したがって 、特に、心して自分の身の回りのことは自分でやることが必要になってくる。

 

3.甘えを手助けするもの

    問題は、甘えてはいけないことでもすべて歳だからで通ることがあることである。世間や周りもそれを許すことにあるのではなかろうか。

     特に肉親の場合、親子の間では、子供の立場からすると、年老いた親に手を添えたり、手助けすることが親孝行と錯覚することがある。

    それぞれのおかれた状況によって手助けして良いかどうかは適切に判断しなければならないのに、何でも手助けをすることが親孝行であり、愛情と考えることがある。

    むしろ心を鬼にして、手助けしないで見守ることが必要とすることもある。その見極めがなかなか難しい。

    孝行心が、意に反して、甘えを助長し、体力・気力の衰えを手助けすることがあるからだ。

 

4.出来ることは許す

     私は、今や傘寿・80を迎える歳になった。今まで見聞した中で、本人がやりたがっていたこと、まだできることを、家族の立場や世間体から止めさせたりすることがあるように見受けることが多くあった。

     自他への生命の危険、危害がない限り、できる限りやりたいことを続けさせることは老いを緩やかにしたり、生き甲斐ややり甲斐を持つことにつながっている。

    自分の意に反して、やりたいことを絶たれたときが、老いの坂道を急に転げ落ちるように体力・気力が低下して、あの時が転機であったと知ることがある。

     人生は再び繰り返すことができない。一度きりである。老いる道のりで、「できることは許す」事も必要ではなかろうか。

 

5.わが甘えとの決別

    こうしてわが甘えとの決別を志していると言っても、時折、理屈より甘え心が頭をもたげてくることがある。人間の性であろうか。これではいけないと反省サルとなる。

     理屈を抜きに、まず自分の身体を動かして、自分のことは自分でやることに努めている人は、歳にかかわらずそれなりに元気である。

    かって「甘えの構造」という本がベストセラ-になったことがある。

   歳をとっても、現役時代のわがままを通していたら所詮、いつの間にやら、高齢者特有の甘えん坊となって、甘ちゃんを卒業できなくなってしまいそうだ。こんなことを考えながら毎日を過ごしている。