浜ちゃん日記  老いる様々な生き方

1.いっぺんに老ける

    高齢になると、数ヶ月前に会ったときは、今までと変わりなく元気に普通に見えたのに、久しぶりに会ったら杖をつき、いっぺんに老けたとびっくりすることがある。

    こうした場面に出会うことが多く、こんなに短期間に人は老けるのかと驚くことがある。「浦島太郎」のおとぎ話とは違った異質のものであろうか。

    私もそうであるが、わが身のこととなると何も感じなかったり、気が付かないでいるのに、他人のことはよく分かるものだ。

 他人は自分の鏡でもある。人は歳をとれば老ける。何人もその自然界の哲理を受け入れざるを得ない。

    古来から長寿薬を探し求めた心境が分かるようになった。どんなに抵抗しても、長寿薬なるものをしても老いはやってくる。どのように受け入れるかであろう。

    本人はもとより家族も、「歳をとって老いる」ことを「迎え入れる心」の準備があったほうが良いではなかろうか。ソフトランディングが求められているのではなかろうか。

 

2.   歳とともに体力、気力が衰える

    人は歳とともに体力・気力が衰えてくる。これは、生きとし生けるもの万物の哲理であるから避けられない。

    多くは70歳前後から個人差が激しくなってくるようで、一律に語れなくなっている。若い時代はこんなことを考えたこともなかったが、自分が歳を重ねてきてよく分かるようになった。自分の「身体が教えてくれる」からだ。

 個人差は歳とともに拡大するが、各人各様である。私は、80歳が近づくにつれて体力面にはっきりと衰えを感じるが、気力の方はあまり変化がないように思っている。これもある時期から衰えてくるのであろう。はたから見たらどう映っているであろうか。

   よく見聞する事であるが、高齢ながら何事にも元気に立ち向かっていた人が、ちよっと、体調を崩したら、とたんにすべてに「やる気をなくして」いろいろな活動参加をやめることがある。また、ある人は足腰が痛むので歩くのをやめ、家に閉じこもってしまうことがある。

 ほんのちょっとした病気、怪我なとがきっかけで老いの坂から突然転げ落ちるようになっていく様を見ていると、老いることの実相はさまざまなである。

    体力の低下は当然のことながら、「気力」が萎えてくると、二度と立ち直ることができない。気力が萎えると、やる気をなくし、身体全体に現れるものだ。かって毅然としていた方がいかにも年老いた身体に変容していくものである。

 老いる事は、つまるところ、「体力が低下、気力が萎える」事の過程ではなかろうか。その時期と速度が急激か徐々かの時間的、速度的な差異であるように感じている。

     医学的な老いることのメカニズムの説明は横に置いて、最近、話題となる「老いてボケること」も、一生懸命に生きてきた者の「名誉の勲章」であり、静かに過ごすための合図・信号であり、悲しむことではない。これは自然の摂理でありいかんともし難い。すべてを成し遂げた者の勲章であり、休息期・平安期であり、周囲も静かに受け容れてあげて欲しいと思うのはひとりよがりであろうか。 

   

3.寿命がつきるまで精一杯生きる

    人はどんな形であろうが一生懸命生きているし、生きたいと願っている。普通の人は早く死にたいなど思っていないが、歳をとると「寿命」というものがあることを自ずと自覚することになる。

     寿命は天命と言われるごとく、己の寿命は天のみが知ることであろう。人は等しく天命を知るよしもないが、寿命の尽きるまで自分なりに精一杯生きたいと願うものではなかろうか。

 私はがんとも闘っているから自分なりの死生観、人生観を持って生きている。体力・気力のある限り、出来る範囲で地域や周りのことで「役立つ」ことがあれば、お手伝いすることにしている。先のことなど分からない。  

    どのような生き方を選択するかはその人の人生観によって決まるであろう。

    ある人は、高齢に負けず毎日社会奉仕にコツコツと尽力していたが、ある時期からパタッと止めた。自分の体力・気力の限界を悟り、別の選択をしたのではなかろうか。それが自然の姿であるように思う。

 こうしてみると、自分ではどうにもにらない時期がやってくる。自分がどんなに「役立ちたい」と願っても、いつの日か、叶わぬ時がやってくるものだ。それまでは精一杯やれたらと願っている。これで良いのではなかろうかと思っている。

    無理をせず、自分の意志でやれるだけやってみたいと思うが、きっとわが身を通してその時期を悟ることになるに違いない。その時は潔く天の啓示に従うことになろう。 

 

4.どのように時間とエネルギ-を配分するか

    人生とは、天から自分に与えられた時間とエネルギ-をどのように自分で選択し配分して使うかであると思っている。

    各人の持つ総エネルギ-は年齢に応じてほぼ同じようなものではなかろうか。また、自分のために費やす時間・エネルギ-と職業・仕事、他への奉仕へ当てる時間・エネルギ-の総和は、各人ともほぼ同じといってよいのではなかろうか。

 人の生き方は、時間とエネルギ-をどのように配分し使うかによって大きく変わってくる。時代、年齢、健康状態、人生観によっても大きく異なってくる。

 どのように自分の持つ一定の時間とエネルギ-を配分して使うか。配分の仕方や使い方は各人各様だ。どれがよくて悪いといったこともない。

    現役時代は概ね時間とエネルギ-の配分と使い方はどの人もほぼ同じであるが、現役を卒業すると生き方は千差万別で、時間とエネルギ-の配分と使い方に大きな開きが出てくる。

   それは大部分の時間とエネルギーを配分し、使ってきた仕事・職業を終えるからである。その分自分の考え方ですべての時間とエネルギ-をどのように使うか自由に選択できることになったわけである。

  

5.現役卒業後の時間・エネルギ-の配分と使い方

 現役時代は、各人とも仕事・職業が主体であり、仕事・職業と家庭に対する時間・エネルギ-の配分と使い方に制約があって、それほど大きな差はないのではなかろうか。

    仕事に重点を置くか、仕事と家庭に同じ程度、あるいは家庭中心におくかなど選択肢はさまざまである。これらは男女の性別、職業の種別、家庭の環境等によって異なってくるからだ。

 現役を卒業すると、俗に言う「第二の人生」の生き方は現役時代と全く異なり、どんなことに時間とエネルギーを配分し、使うかは自由で千差万別である。

    したがって時間とエネルギ-の配分と使い方は「個性的」で「その人なりの人生」を展開することができるようになる。

    引き続き社会との接点に重点を置く人、社会的な接点を避けて全く自分の趣味等に没頭する人、家事に専念する人、何もしないで毎日家でテレビを見ることで過ごす人さまざまであろう。

 私は、人生の区切りとなった自衛隊を定年退官した時に、自分の住む町・地域に役立つことがあれば手助けしようと決心した。

    こうした自分の設定した目標に向かって努力をしようとすると、当然に私的な時間とエネルギ-が割かれる。それをよしとしているから愚痴も不満もない。何かができたら、させてもらえたらありがとうと受け入れている。

 しかし、人は老いの終点・終末が近づくにつれて、どんなに社会・組織・集団・他人にかかわった時間とエネルギ-を当てた者でも、次第に減って、すべてが自分に関わることにすべての時間とエネルギ-を充当することになる。これが老いる人生の定めであり、避けて通れない道である。

 どのような生き方をしようと、自分が選択した道であるならば、すべてを受容し、満足して笑顔で人生を全うしたいと願っている。 

    天寿とはそのようなものではなかろうかと考える。