昭和の陸上自衛隊の思い出(22・むすび) 「徒然の記」  向学心に燃えた田中君

陸上自衛隊の思い出・「徒然の記」

 この記は、昭和54年11月浜松基地にある飛行教育集団司令部人事第1班長(自衛官人事担当)(現航空教育集団司令部)として勤務した、2 佐・44歳の頃、浜松医療センタ-に短期間、検査入院した折に「徒然の記 」として、24年前の昭和30年陸上自衛隊に入隊し教育訓練を受けたころを回想したものである。

  *現在から当時を見てどうであったのか所感と説明を【  】に加えることにした。

  

26.   向学心に燃えた田中君

    陸上自衛隊米子駐屯地における3か月、新隊員教育隊の人々の中で忘れられない隊友は、「田中君」である。田中君は、多分、鳥取県の由良あたりの出身で、向学心に燃えた青年であった。

    その交友は、米子駐屯地の新隊員の中で航空自衛隊操縦学生を受験した者は多数いたが、1次試験に合格したのは、田中君と私の2人であった。このことから交友が始まった。

    2人して伊丹にある総監部へ2次試験に行った。お互いに励まし合った仲であったが、合格したのは私1人であった。

     彼は、その後、米子駐屯地の普通科中隊に勤務しながら訓練、演習、諸勤務と困難に負けず大学の通信教育を学んだ。きっと卒業したであろう。

    私が航空自衛隊に入隊後も数年間は文通が続いていたが、いつの日か絶えてしまい今日に至っている。

    田中君の常に向上心を失わず、目標を持って努力していた姿が昨日のように目の前に浮かんでくる。

 

【    60年前の事で、田中君の名前がどうしても浮かんでこない。この徒然記を認めた時でさえ当時から24年経過していた。

     昭和30年1月から3月の3ヶ月の新隊員前期教育であったが、戦後初の操縦学生採用試験を受験したところ、1次試験に合格して2次試験を一緒に受けに行った。 こうしたことから、その後、教育隊での 交友を深めた。

    私が航空自衛隊操縦学生に進んだ後も手紙のやり取りをしていた。陸上自衛隊における厳しい訓練・演習・諸勤務にかかわらず、初心を貫徹して勉学に励んだ田中君に啓発されることが多かった。

     私の青年時代にお互いが切磋琢磨し合う隊友がいたことは忘れがたいことであった。文通が途絶えた後、彼がどのような人生を歩んだかは  知る由もない。きっと目標を成就したに違いない。歳も同じであった。忘れることのない人である。 

    これをもって、陸上自衛隊における新隊員教育などの思い出を終わる。

    次回からは、いよいよ念願かなって、部内幹候選抜試験に合格し、航空自衛隊幹部候補生学校へ入校するところから始まる。新たなる自衛官人生を歩むこととなる。  】