陸上自衛隊の思い出・「徒然の記」
この記は、昭和54年11月浜松基地にある飛行教育集団司令部人事第1班長(自衛官人事担当)(現航空教育集団司令部)として勤務した、2 佐・44歳の頃、浜松医療センタ-に短期間、検査入院した折に「徒然の記 」として、24年前の昭和30年陸上自衛隊に入隊し教育訓練を受けたころを回想したものである。
*現在から当時を見てどうであったのか所感と説明を【 】に加えることにした。
25. 優秀な教官・助教
昭和30年1月陸上自衛隊米子駐屯地の新隊員教育隊に入隊 した。
私の教育中隊は、中隊長1尉のもと小隊長は3尉と見習幹部であり、中隊の幹部は3名であったように記憶している。
教官の教育指導能力は高く、適切であるように思ったが、最初は毎日の課業を精一杯こなしたり、ついていくのがやっとであった。
教官は、新隊員にとっては、神様のような存在であり、上官と接する事が出来たのは、せいぜい班長・班付までであった。
それだけに班長や班付の威力は絶大で、隊員からも信頼されていた。
班長の人格、考え方は班員に影響を与え、班の動きは班長そのものであった。
新隊員の教育においては、班長の人格即班員といえるごとく、教育者の指揮統率力は大切である。航空自衛隊において、優秀な人材を配置することが見直されたのも当然のことである。
【 陸上自衛隊の新隊員教育を受けてたときの所感である。 実地、座学の教育は初級幹部・教官の優れた教育指導能力、 内務班における隊員の起居動作は、班長・班付の人格・人柄 ・指導力にかかっている と言って過言ではない。
当時、教育指導にあたって堂々とした自信に満ちた教官に接して、このような幹部になりたいと憧れたものであった。それだけ小隊長・班長・班付に優秀な人材を配置していたものと考える。
後年、航空自衛隊において、人事幕僚として、教育に従事する准尉・空曹の人選にあたっては、慎重に適格者を配置することに着意した。
また、術科学校の教育現場の責任者として全教官陣一体となって取り組んだのも、新隊員教育の原点がここにあったからである。
いみじくも、徒然記に「班長は神も顔負け力持つ」と記している。3曹の班長にそれだけの力があるのである。そこには階級や地位ではない役割がいたるところにある。
また、「教えとは心と心ふれあいし」と記している。小・中学校の教育も、自衛隊の教育も教える本質は同じである。青年期の教育訓練ではさらに難しいものだ。技術の前に教官としての心があって、学生を惹きつけ伝授することができる。】