昭和の陸上自衛隊の思い出(6 ) 「徒然の記」 制服等の支給、所属班

陸上自衛隊の思い出・「徒然の記」

 この記は、昭和54年11月浜松基地にある飛行教育集団司令部人事第1班長(自衛官人事担当)(現航空教育集団司令部)として勤務した、2 佐・44歳の頃、浜松医療センタ-に短期間、検査入院した折に「徒然の記 」として、24年前の昭和30年陸上自衛隊に入隊し教育訓練を受けたころを回想したものである。

*現在から当時を見てどうであったのか所感と説明を【  】に加えることにした。

 

8.  初めて制服着用

 昭和30年1月16日陸上自衛隊米子駐屯地に到着すると受付後、身体検査が行われ合格した。その後、約200名の新隊員が大講堂に集合し、制服の支給が行われた。

 制服等は、制帽、制服、作業服、ワイシャツ、半長靴、短靴、下着等の貸与・支給品でいよいよこれで新兵になったと実感を強めた。

 制服は、米軍式のジャンパ-型のもので、新しいものと古い物との2着、作業服も同様であった。今日の新隊員が全部新品を支給されているのとでは今昔の感新たなるものがある。

 どちらかというと、制服を身体に合わせるというよりか「お前の身体を制服に合わせろ」といった具合であった。

 特に、制服の改造は、厳しく禁じられており、許可を得てBXで直してもらうことはできたようである。    

     写真機が普通では持てないほど高価であったせいか私の場合、当時制服姿で写真に残っているものは3~4枚ぐらいしかない。

 【 創設期の自衛隊は予算も乏しく被服費を節約したのであろう。制服・作業服とも徹底した節約で中古であった。作業服は激しい匍匐前進をすると破れてしまい苦労した。売店でミシンをかけてもらい修理したのを覚えている。現在のように優れた材質で、いくつもの体型に合ったものが支給されるようになるまでにしばらく年数がかかったのであろうか。】

 

9.  所属班で一番若かった

 身体検査、官給品の支給が終わってから中隊、班の組成が行われ、私は井上班長(3曹)、班付(士長)の指揮下に入った。班は約20名で1個班をなし、2段ベッドであった。

 わが班は私が一番最年少であり、平均して年長者が多かったようである。中には再入隊者がおり、何かにつけて先輩ぶっていろいろと吹き込み威張っていたのが印象的であった。

 純真な青年であった私もこのようにして世の中の荒浪にもまれ社会へと船出したのである。

  【 所持品はトランクに入った参考書のみであった。きれいさっぱりであったが、衣食住すべて困ることはなかった。班長が倉吉の出身でそれとなく良く面倒を見ていただいた。班で一番若かったがいじめられたこともなく、むしろ可愛がられたように記憶している。若かった分、体力・気力・科目の理解力・習得力はあったので厳しい教育訓練も余裕を持ってこなすことができた。口頭による説明だけでは理論的な面が十分理解できず、売店で買ってきた野外訓練教範的資料を勉強し更に習得に努めた。】