昭和の陸上自衛隊の思い出(5 ) わが自衛官人生の基盤づくりと陸上「徒然の記」

1.わが自衛官人生の基盤づくり時代

    高校卒業寸前に進学を諦め、米子駐屯地の陸上自衛隊に入隊し、新隊員前期教育を受けた。

    教育訓練中に、戦後初の操縦学生(現 航空学生)制度が誕生・募集が行われた。高校卒で所定の教育訓練を卒業したら操縦幹部になれるとのことで応募した。

    38倍の競争であったが運良く合格し、大空に憧れて第1期操縦学生として航空自衛隊に入隊した。

    防府基地で基本課程、浜松基地で英語教育、小月基地で操縦準備と順調に進んだ。

    次いで、いよいよ待ちに待った待望の初級操縦課程を学ぶも単独飛行前に操縦免となり、大空への夢は破れ人生初の挫折に直面した。

    新天地を求めて浜松基地の整備学校へ転任し、そこで航空自衛官としての新たなる歩みを始めた。

    進路変更と多くの出合いがあり、再起して様々な経験を積んで部内幹部候補生選抜試験に挑戦・合格し、幹部への道を歩むこととなった。

    顧りみると、この自衛隊入隊から5年間は、実社会へ出てからの運転教習の時代であり、「わが人生の基盤づくりの時代」であったといえる。この間各種の教育訓練、出会い、経験等、まさしく「人生至る所に青山あり」であった。

     「基盤づくり時代」を締めくくるに当たって、再び自衛官振り出しの「陸上自衛隊の思い出」に触れておくことにする。

    

2.陸上自衛隊の思い出・「徒然の記」

 この記は、昭和54年11月浜松基地にある飛行教育集団司令部人事第1班長(自衛官人事担当)(現航空教育集団司令部)として勤務した、2 佐・44歳の頃、浜松医療センタ-に短期間、検査入院した折に「徒然の記 」として、24年前の昭和30年陸上自衛隊に入隊し教育訓練を受けたころを回想したものである。

 

航空教育集団司令部    ホ-ムぺ-ジの一部抜粋

 航空教育集団は、航空自衛官として必要な基本的事項を習得させるための教育(一般教育)、パイロットを養成するための教育(飛行教育)及び職務に必要な知識技能を付与するための教育(術科教育)並びに部隊等での教育訓練に必要な教材類の制作及び修理を主な任務としております。
  航空教育集団司令部は、東北から九州にまたがる10個基地に所在する14個の部隊や学校を取りまとめ、統制指導等を行っています。
 

 「徒然の記」

1.  陸上自衛隊の記  陸上の短き中の思い出の記

 陸上自衛隊に勤務したのは昭和30年1月 16日から同年6月1日までである。

2等陸士として第5臨時新隊員教育隊に前期は米子駐屯地、後期は福知山駐屯地において教育を受けたが、航空自衛隊に発足した操縦学生の第1期生採用試験に合格し、同年6月2日幹部学校(防府、その後幹部候補生学校所属)に入校し、陸上自衛隊の生活を終結する。

陸上自衛隊の短き中に思い出の記」54.11.12 浜松医療センタ-にて

*現在から当時を見てどうであったのか所感と説明を【  】に加えることにした。

 

2.   採用試験

 2等陸士への採用試験は昭29年9月倉吉市の小学校の体育館でで受験した。近所の2級上の先輩と一緒に受験した。学科試験はあまりにやさしく直ぐにできてしまい当然満点であったと思っている。 

 その日のうちに、身体検査を受け、仮合格と判定された。当時の採用試験は、身体検査も旧軍的なやり方でを厳正に実施されたように記憶している。

【 今から見ると、大学入試を勉強してきただけに、中学卒業程度の試験内容は直ぐに解答できてしまったのではないかと思う。昭和の20年代の大部分の人は中学を卒業したら就職するのが普通の時代であった。高校に進めたのは本当に恵まれた子だけの時代であった。ましてや大学に進学出来るのはほんの一握りであった。今日のように全員高校に進むのが普通である恵まれた時代とはちがい、まだまだ日本全体が貧しい時代であった。身体検査のやり方は旧軍方式で、パンツ一丁かふんどしになり何のためらいもなく医官の前で堂々と前を広げた。】

 

3.   自分で決めた入隊の意志

 陸上自衛隊に入隊することは全く自分の意志であり、父には自ら了解を取り付けたものである。前年9月、すでに陸上自衛隊に採用・入隊が決まっていたが、何か気が進まないので家で受験勉強をしていた。

 父は、この間特に何も言わなかったが、母は私の身を案じていたようである。

陸上自衛隊から2度目の勧誘というか、入隊案内が来たとき自分の意志は固く、迷うこともなく入隊の返事を出した。

【 自らの意志で入隊すると決めていていながら、1回目は入隊せず、2回目の入隊案内で、踏ん切りがついたようだ。その辺の心の揺れは若かったので葛藤があったものと思われる。その時の心境は全く覚えていないが、青春時代は誰もが経験する心の揺れ動きであったように思える。当時親の立場ではどうだったのかと、想像すると何も言わずそっとしてくれた親のありがたさに感謝している。当時のことを親に尋ねる機会を失ってしまった。】

 

4.   陸上自衛隊への第一歩

  陸上自衛隊の米子駐屯地に所在する第7普通科連隊におかれた新隊員教育隊に入隊したのは、忘れもしない昭和30年1月16日である。

 24年前の若き青春時代のことが昨日のように思い出される。実社会への船出の第一歩であり、それだけに入隊前後のことは今でも記憶に鮮明なのかもしれない。

 この日、山陰地方は、この土地特有の厳しい天候で寒かった。

【 60年前の記憶は薄れたが、この記録を読んで当時のことがおぼろげながら浮かんでくる。この記を綴った44歳の頃は記憶が鮮明であったのであろうか。】 

 

 5.  父と共に米子駅頭に立つ

   当日は、多分午前11時ごろに米子駅に到着予定の列車に上井駅(現倉吉駅)から乗り込んだ。

 長兄から借りたセビロ姿で、トランクに高校時代の参考書をいっぱいつめこんで手にし、主なったことを覚えている。

 鳥取県の西に位置する米子駅は、県庁所在地の鳥取駅に次いで二番目に大きな駅だけに田舎の駅から比べると整っており乗客の乗り降りも多いように見えた。わが人生は、父と共に米子駅頭に立った時から始まったのである。

【 父が付いてきたのは、今もってなぜだったのか不明であるが、着隊して身体検査に合格したら制服等が支給され、私物は一切持ち帰るようになっていたので、父が兄から借りたセビロを持ち帰ったのを覚えている。他にも父兄が多くいた。着るもの履くもの一切私物は必要なかった。保管の場所さえなかったから当然といえる。

 入隊式は翌日以降であったことから、私物を持ち帰るのと、自衛隊と息子の様子を確かめるためではなかったかと推測している。今風の付き添いとは違っていたように思われる。】 

 

6.  初めて乗った自衛隊車両 

  米子駅頭に立つとすでに部隊から係官と車両が幌を付けて待っており早速この車に父と一緒に乗り こんだ。

 案内係の陸曹は、要領よくみんなが座れるほどの人数になると発車し、米子駐屯地へ向かった。米子の町を通り抜けると道路の周りは畑一面で、しばらく走ると松林が連なる両三柳という集落に入り鉄条網にかまれた駐屯地に到着した。車の中では幌の隙間、下から冷たい風が吹き上げて寒かったことが印象的であった。

【 GMCという車両で、隙間から結構冷たい風が入ったものだ。現在であれば快適な大型バスが運行されたであろうが、クッションはなく板の腰掛に腰かけて軍用の車両そのものであった。どんなところに駐屯地はあるであろうかと思いながらも幌が両側にあり、乗車口の後方だけが幌がないので外を注視しながら駐屯地に着いた。 】

 

7.    営門に入った時の初印象

 駐屯地の営門を通過した時、警衛所にはいかめしい衛兵が整列しており、規律正しく敬礼していたのが印象的であった。

【 初めて陸上自衛隊の駐屯地に入った印象である。写真では自衛隊の様子は見てきたが、実際に駐屯地に入ったのは初めてで興味津々とこれからの自分の自衛隊生活と重ね合わせたのではないかと思う。】

 

 

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《 書類を整理していたら、「徒然の記」として、「陸上自衛隊の記」が認められていた。昭和54年11月飛行教育集団司令部勤務・44歳・2佐時代に、自分では全く感じていなかったが、健康診断のレントゲンで肺に影が認められたため急きょ浜松医療センタ-に入院検査し、肺炎の跡と分かり勤務復帰したことがある。入院間暇なので、24年前の陸上自衛隊の勤務の所感を記録した。》